子どもを少年院に入れたくないなら抑圧して育てるな

 

どうやったら少年院に入るような子どもができるか、不思議ではないだろうか。

 

私の生まれ育った家庭環境は、特段変わっていたわけでもない。

 

シングルマザーに育てられたが、幼少期は父と母と妹と普通の家族を営んでいた。

 

虐待されていたわけでもなく、育児放棄されたわけでもない。

 

だが、私は結果的に、少年院に入るような子どもへと成長していった。

 

逮捕され、留置場、鑑別所、少年院と、様々な少年に出会い、彼らの境遇に興味を持つようになった。

 

物珍しさから惹かれただけだが、私を含む多くの子どもに「抑圧して育てられた」という共通点を発見した。

 

子どものほとんどは、親の思う通りには育たないだろう。

 

たとえ親の思う通りに育たなくても、犯罪者になることは稀だ。

 

しかし、その可能性はゼロではない。

 

私と母の関係性と、様々な少年に垣間見えた共通点をお伝えしよう。

 

母は責められれば責められるほど、私を抑え付けようとした

 

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私の母は昔から「良いお母さん」になろうとしている節があった。

 

慣れないことを無理にしているのは子どもながらに分かるもので、良いお母さんを演じている母が気持ち悪く感じるときもあった。

 

しかし、世間体というのは大切である。

 

今でこそ母の考えも理解できるが、当時は何のために嘘をついて笑っているのか分からなかった。

 

幼少期の私は「良い子」そのものだ。

 

「自分がどうしたいか」

 

ではなく、

 

「どうしたらいい子だと言ってもらえるか」

 

を、優先して行動していた。

 

おかげで自己肯定感の低い子どもに成長したが、模範的な良い子であったことは確かだ。

 

承認欲求を満たすために自己を犠牲にするのは、きっと幼い頃に身に付けた無意識のうちのひとつなのだろう。

 

それらは習慣化され、気付けば恋愛や性癖へ変化していったのだ。

 

中学生になり非行に走るようになると、周囲から責められたのは母だった。

 

「育て方が悪い」「もっと叱る必要がある」「お前は何をしてるんだ」と、周りの大人は母を責め立てた。

 

私が非行に走れば走るだけ、責められていたのは母だ。

 

最初は笑って誤魔化していた母も、段々と鬼の形相が増え、私をより抑圧した。

 

家の鍵を取り上げ、「学校にも行くな、家からも出るな」と言い始める。

 

友人が家の近くまで来ているのが分かると、鬼退治の勢いで友人を蹴散らしていた。

 

母は泣き喚きながら私を殴ることもあり、その光景を見て当時小学生の妹も泣き始める…といったカオスな状況も多々あった。

 

母は、「良い子」という枠からはみ出してしまった娘を、再び「良い子」という枠にはめ直そうと必死だった。

 

それでも、言うことを聞くような娘ではない。

 

どんなに殴られても「もっとやりなよ」と笑い、ボロボロに破けたシャツのまま家を飛び出す。

 

言われれば言われるだけ逃げたくなり、構われれば構われるだけ、母を嫌いになっていた。

 

思い返せば私は、いい子だねと言われるためだけに生きていた

 

少年院生活ですっかり自己分析にハマった私だが、母との問題に触れるのはパンドラの箱を開けるようなものだった。

 

最も解決しなければならないと分かっているのに、触れたら終わる気がして仕方がない。

 

血管を縫わなければ、血は止まらない。

 

血が止まらなければ、いずれ死ぬ。

 

死ぬのは嫌だと言いながら、血管を縫う痛みに耐える覚悟もない。

 

そんな気持ちであった。

 

しかし、私は少年院にいる時間を無駄にしたくなかった。

 

望んで少年院に入ったわけではないが、何も得ずに帰るのはもったいない気がしていたのである。

 

一歩外へ出れば、母と向き合うことからはいくらでも逃げられるだろう。

 

友人との面会や文通が一切禁じられた場所でやるべきことは、自分と向き合うこと以外になかった。

 

(稀に少年院にいる彼氏に会いに行ったとか文通していたとか言う人がいるけど、あれは全部ウソ。少年院も鑑別所も基本的に親兄弟以外は、一切の交流が禁じられてる。文通をするのに親兄弟以外の祖父母であっても、申請し許可を取る必要がある。彼氏彼女はもちろんのこと友人は無理だし、婚約者も無理。未成年でも結婚していれば面会、文通は可能。)

 

そんなこんなで、私はついにパンドラの箱を開けることにした。

 

最初に回想したのは、幼い頃だ。

 

私には3歳下に妹がいるのだが、妹は心臓に穴が開いた状態で生まれた。

 

「長くは生きられないだろう」と言われた父と母は、私を祖母の家へ預けて懸命に戦っていた。

 

私は6歳までの3年間を祖母と暮らしていたが、思い起こせば、この頃から自己犠牲の精神があったのだ。

 

そもそも最初は、祖母に迷惑をかけたくないという気持ちからだった。

 

次第に「いい子だね」と褒められたい気持ちへ変わり、いつしか私は自分がどうしたいかよりも、どうしたらいい子だと思われるかを考えるようになった。

 

この感情の変化は、アドラー心理学で解決することができた。

 

親の関心を引くために子どもがするのは、何も物理的で破壊的な行動だけではない。

 

(泣く/騒ぐ/物を投げる、当たる/髪を引っ張る、叩く、など)

 

ネガティブな行動で親の関心を引こうとする心理もあり、私はその中から自己犠牲という方法を選んだだけだった。

 

当時幼稚園の私が感じ取り、そう選択したのだ。

 

何事においても子どもだからと侮っているのは、大きな間違いである。

 

そんな抑圧を自分自身に課しながら、生きてきた。

 

そうして積もり積もった爆弾が、中学生で爆発するのである。

 

私の家庭環境に「どんなあなたも好きよ」という愛はなかった

 

私の家は、結果がすべてだ。

 

たとえ子どもであっても、言い訳を聞いてもらえることはほとんどなかった。

 

やるか、やらないか。

 

できるのか、できないのか。

 

いけるか、いけないか。

 

3歳から英会話スクール、新体操、水泳、バレエ、茶道、琴を習っていた私は、全ての習い事で結果を求められた。

 

親の期待を裏切ればボロクソに言われ、期待以上の結果を出せば「いい子だね」と言ってもらうことができた。

 

アラサーになって3歳くらいの子を見ると、生まれたての赤ちゃんと大差ないように感じる。

 

まだまだ子どもの中でも特に子どもで、結果がすべてなんて言っても分からないだろうと思う。

 

しかし、私は生まれて3年で結果を求められるようになっていた。

 

たとえ失敗しても、できなくても、それでも、そんなあなたも変わらず愛してる。

 

と、言ってくれる家族が欲しかった。

 

でも私の家族は、そうではなかった。

 

医療少年院にいた他の少年も、親に「赦し受け入れられる」といった経験が乏しかった。

 

責められ、批判され、だめな子というレッテルを貼られる。

 

そんな経験を繰り返すうちに、自己犠牲や破壊行動に走るようになったのだろう。

 

家族の中でも兄弟に対しての感情と親に対しての感情は違う。

 

特段、親に対しての方が特別な感情を抱くだろう。

 

だからこそ親と子の関係は大切なのだが、親に責任が伴う以上、子どもの話を聞いている場合でないこともある。

 

だが、それでも聞いてほしい。

 

結果よりも過程が大切だと教えられるのは、どんな失敗も許される子ども時代しかないのだから。

 

自分が間違っていて子どもが正しいかもしれない、という疑惑を持て

 

出先で頭ごなしに怒鳴り散らす親御さんを、時折見かけることがある。

 

私は前後の事情を知らないので、一概には言えないが、所詮子どもだ。

 

感情的になったら負けではないだろうか。

 

だが、子育てがそんな綺麗事では成り立たないことも理解している。

 

友人の子どもと数日一緒にいると、親でない私が本気でイライラすることもあり、子ども相手に口論することもしばしあった。

 

気の強い女の子や、ふざけた男の子は大人をイライラさせるのが得意だ。

 

あれだけ元気な子どもと数年にも渡って四六時中一緒にいるのだから、ふざけんな!と本気になってしまうのも無理はないだろう。

 

しかし、それでも、子どもを少年院送りにしたくないなら、頭ごなしに決めつけて怒ることは、絶対にしないでほしい。

 

時間は有限だが、切羽詰まって答えを出さなきゃいけない状況は人生でそう多くない。

 

子どもの言い訳を聞く時間は、いくらでもあるだろう。

 

たとえどんなにくだらない理由だったとしても、「どうしてそうしたか」という経緯に(動機に)子どもの求めていることが隠れている。

 

その欲求を満たしてあげれば、親の手をこまねいて気を引こうとすることは必ずやめる。

 

やめるというより、やる必要がなくなるからやらないのだ。

 

大人になると、経験値が上がり見てきたものも必然的に増える。

 

伴うようにして、固定概念やレッテル貼り、自分の物差しを振りかざすことも増えていく。

 

正しいときもあるが、全てがそうだとは限らないだろう。

 

血を分けた子どもであっても、他人。あなたではなく、他の人間だ。

 

親は自分の子どもを他人(自分以外の人間)と認識せず、自分の分身だと思っていることが多い。

 

だが、子どもは子どもというあなた以外の人間である。

 

彼らの考えることとあなたの考えることが絶対に一致するわけではないし、妻や夫と同じように考えたら、最初から決めつけて怒鳴り散らすパートナーなんて必要だろうか?

 

私には不必要だ。

 

それがまして親の場合、毒親でないかと疑いかねない。

 

どんな相手に対しても謙虚な気持ちで、虚勢を張らずに、素直に応じる。

 

間違いを犯したら誠意を持って対応し、思いやりを持って接する。

 

そんな人が社会で好まれることは分かっているし、自分もそうであろうとしている人がほとんどではなかろうか。

 

だが、家へ帰り子どもを前にすると、途端にジャイアン的思考になる。

 

どうしてだろうか。

 

私の母は少年院で「あなたと私の娘を一緒にしないで」とキレた

 

私の母はとても気が強く、絶対に、なにがあっても、物怖じしない。

 

少し面白い話をしよう。

 

ある日、医療少年院でこんなプログラムが開催された。

 

  • 元少年院卒の卒業生を2名招き、話し合いのような相談会を開催
  • 現在の悩みや出院後の不安を相談することができ、体験談も聞ける
  • 親も一緒に参加

 

私と母はもちろん参加したのだが、少年と親を合わせて10人前後がこのプログラムに参加した。

 

元少年院卒の2名は、以下のような感じであった。

 

Aさん:医療少年院の近所が地元で、主婦をしている40代のおばさん。子どもが2人いて、16歳のときに覚せい剤で少年院送致。

 

Bさん:はるばる新幹線に乗ってきた、会社経営者の30代独身女さん。結婚する気はないそうで、18歳のとき傷害と窃盗、殺人未遂で少年院送致。

 

ふたりは明るく少年や親と話していたのだが、私にはどうしてもバカに見えて仕方なかった。

 

元ヤンキー感が丸出しというか、こうはなりたくないという例に見えて仕方なかったのだ。

 

確かに更生はしたのだろうし、今は少なからず社会に迷惑をかけずに生きているのだろう。

 

貢献しているかは否かであっても、少年院として「まあここまでいければ十分だろう」という感じも理解はできた。

 

だが、バカにされているような、見下されているような、ヤンキー特有の感じが否めずに、好きになれない感じがした。

 

恐らく母も同じように感じていたのだろうが、Bさんがこんなことを言ったのだ。

 

「みんなダメな子じゃないですか。世間からもよく思われてないし、こんな子じゃなきゃって思うし、けれど、こんな親じゃなきゃって思うし、でも大丈夫ですよ。お互いに必ず成長しますから!」

 

中身のない、しょーもないことを。

 

と、思ったのも束の間、母がこう言った。

 

「あなたと私の娘を一緒にしないで」

 

母は昔から誰の前でも、遠慮なく自分の意見を言う人だった。

 

学校の先生でも医者でも警察でも、間違っていることは間違っていると譲らなかった。

 

海外出張の多い父と、自己主張の強い母。

 

外国人のような性格のふたりに育てられた私は、内気で小心者、自分の言いたいことなど到底言えない性格に育った。

 

そんな私にとって母の発言は、ただただ拍子抜けした。

 

「えぇ、今ここでそれ言うの…。」

 

と思った。

 

そう言われたBさんは引きつりながら笑っていたが、かく言う私も彼女と一緒にされるのはゴメンだった。

 

しかし、中には彼女の話に同意している親御さんもいた。

 

私が一般的な社会人になれたのは、奇跡かもしれない。

 

誰もがそうなれるわけではないと考えると、彼女の言っていることに間違いはないのかもしれないとも思った。

 

医療少年院では、親も一緒に精神科医の診察を受ける

 

医療少年院には特殊な部分が多いが、面会時に親も一緒に精神科医の診察を受けることがある。

 

私と母は2回に1回のペースで、精神科医を交えて面会していた。

 

ほとんど、母と精神科医が話す内容をぼーっと聞いているだけだった。

 

冒頭、私は「子どもが非行に走ると責められるのは親だ」と言った。

 

非行に走って悪いことをしているのは子どもなのに、お前のせいだと言われるのは親だ。

 

おかしなことにも思えるが、母の変化を見ていると、責められる相手が親であるのは一理あるのかもしれないと思うようになった。

 

母は離婚後、精神が狂って目も当てられないような状態になっていた。

 

仕事は普通に行くし、世間体的にはシングルマザーで頑張っている良いお母さんだ。

 

しかし、家へ帰ってくれば泣き叫んで怒鳴り散らし、睡眠薬を乱用する。

 

私と妹が父へ会いに行けば、発狂どころか「産まなきゃよかった!」と言う始末である。

 

そんな状態も数年経って落ち着いたが、あの頃の溝が埋まっていないことを母も私もお互いに感じ取っていた。

 

私が母に言う「お前のせいだ!」というセリフは、母の中で思い当たる節もあったのだろう。

 

どこかで話さなければと思いながら少年院という場所にたどり着き、私たち親子は精神科医の診察の元、溝を埋めていくことにしたのだ。

 

診察は父と母が出会った頃から始まり、最初の壁である妹の存在、そして祖母に預けられた時間、離婚、生活環境の変化、そして学校や恋愛と、母と私の人生のほとんどを振り返って行った。

 

母は私が少年院に入ってから、赦す、認める、受け入れる、ということを覚えたように思う。

 

自分の物差しが絶対に正しいわけではないと分かったのだろう、昔よりも人の話をきちんと聞くようになった。

 

そして何より、否定をしなくなったのである。

 

昔は「デモデモダッテ」が口癖で、いかに私の方が正しいかを説くような親だった。

 

しかし、少年院から出る頃には一旦私の話を聞き、その上で、「ママはこう思う」という意見の述べ方ができるようになっていた。

 

私はまだ、子どもがいない。

 

親にならないと分からないことの方が多いと思っているが、自分の子どもを自分と同じだと思っている親はとても多い。

 

だが、他人だ。

 

自分のDNAを受け継いでいたとしても、我が子は自分以外の他の人間なのである。

 

感じることも、ものの見方も、考え方も、好きなものも嫌いなものも、親とは違う。

 

全部違う。

 

どんなに似ていたとしても、絶対に違う。

 

そのことを常に念頭に置いて、相手をひとりの人間として扱わなければ、相手が傷つくのも無理はないと分かるだろう。

 

まとめ

 

どの子どもも少年院に入らず、貧困に苦しまず、愛に溢れた家で育ったら、この世は絶対に平和である。

 

だが、どの動物にも親や家族に恵まれない子どもがいるように、虐待したり育児放棄をする親というのは、生物学的にも仕方ないのかもしれない。

 

しかし、だからといって、少年院に入るような子どもに育つのは避けたいだろう。

 

少年院に入ることは、決して不幸なことではない。

 

けれど、見なくていい世界であったことは確かだ。

 

相手を思いやり、できることは協力してやる。

 

大人同士なら当たり前のことを、親子でも当たり前にするだけ。

 

年齢や経験値は関係ない。

 

ただそれだけで、子どもは幸せでいられる。