医療少年院送致された私は精神病なのか

 

 

そもそも疾患の疑いがあるから医療少年院に送致されるわけで、そんな私も精神病じゃないかと疑惑を持つことは自然なことである。

 

しかし、残念ながら私は精神病ではない。ろくに風邪も引かない健康優良児そのもので、基本的になんとかなるさのお気楽主義である。

 

なんともならなかった結果、少年院送致になったのは笑えないが、私が医療少年院精神科医とどのようなやり取りをしていたかご紹介しよう。

 

私は医療少年院で乖離性障害だと診断された

 

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なにをアホなと思ったが、実際に私にはそう診断が下された。

 

所謂ボーダーと呼ばれる精神病で、事件の記憶が抜けているのもそのせいだろうということだった。

 

しかし、それすらも計画のうちだったと今だから話せることもある。

 

実は私は逮捕された直後から、言葉のイントネーションを変えていた。

 

田舎特有の訛りを全開にして取り調べ等を受けていたのだが、刑事に時折「あなたは長いこと東京にいるんだよね?」と聞かれた。

 

自分でも笑ってしまうほどの訛りだったが、これも人格が別にあるかもしれないという疑惑を持たせるためであった。

 

事件を起こしたくせに、最低最悪だと思う。

 

だが、私には一切記憶はなく、とにかく早く出ることだけを考えていた。

 

否定や無罪の主張が通じないのであれば、私が犯人だということを諦めてもらう必要があった。

 

しかし、確たる証拠があるにも関わらず私の記憶にはないと言い続けた。

 

以上の理由から、私以外の人格が存在するボーダーという診断が下ったのだろうと推測している。

 

病気というのは、時にとても強い言い訳になる。

 

ほとんどの人は病気を理由にされたら相手を責められなくなるように、私も、医療少年院という楽な場所で過ごす方法を意地でも離す気は気はなかった。

 

医療少年院では退院時に、担当医が作成した診断書を渡される。

 

その診断書を持って精神科へ通うように言われるが、私のように軽度の場合は自由意志で通院するか否かを決められる。

 

(保護観察中には様々な制約が設けられているが、精神科への通院は絶対条件ではなかった。私は保護司にも通院していないことを伝え、なぜかという理由も明確に話していた。よって、半年間の保護観察も無事終了した。)

 

もちろん診断書は出てすぐに破り捨て、精神科に行くことはなかった。

 

甚だそんな気はないし、出てしまえば「終わった、お疲れ!」くらいの気持ちである。

 

医療少年院で担当医と話したのは、これからの生き方について

 

では、私のように比較的健常児に近い少年はどうしていたかというと、担当医の診察でも病気を治療するようなことはなかった。

 

薬を処方されたことは一度もなく、ただ世間話をするだけの時間だった。

 

私を担当した精神科医は女医で、あの酒鬼薔薇事件の少年の担当医でもあった。

 

気が強くハキハキと話し、同情は一切しない。

 

鉄の女かと思うような女医だったが、なかなか面白い人だ。

 

彼女は私に遠慮をせず、言いたいことはなんでも言った。

 

私がイライラしても、悲しんでも、構わずに正論をぶつけてきた。

 

一般的な精神科医の診察方法としては、正直間違っていると思う。

 

傷口に塩を塗ることに容赦ないタイプだったので、最初は大嫌いで仕方なかった。

 

しかし、だんだんとこちらも主張を遠慮なくぶつけるようになり、最終的には週に一度の診察時間が楽しみになっていた。

 

私は働きたくない、人の言うことも聞きたくない、だからといって独りで生きていく覚悟もないという、反抗期真っ盛りの状態だった。

 

彼女は最初からそれを見抜いており、私にこう言った。

 

「私は楽して稼ぎたかったから、必死に勉強して医者になった。今は仕事終わりにシャンパンを開けて、週末にはパーティーに出掛ける。決して楽な仕事ではないけど、人の何倍遊んでも許されるくらい勉強してこの仕事に就いたの。」

 

「あなたは甘いのよ。楽して稼げて、楽して生きられる方法なんてこの世には存在しない。努力が実らないこともあるけど、大事なのは結果じゃない。努力したという過程が、その先や自分の自信へ繋がるのよ。」

 

うるさいわ!と、内心は思っていた。

 

しかし、そう感じるのは図星だと自分でも気付いていたからである。

 

親や兄弟、友人や学校の先生に言われると、分かっていても腹が立つことの方が多い。

 

だが、同じことを見ず知らずの他人に言われると、冷静に聞く耳を持てたりするものだ。

 

確かに私は彼女の言う通り、他の人が辿ってきた「当たり前のこと」を一切といっていいほどしてこなかった。

 

勉強はできても学校には行かず、友人もほとんど作らず、ただ好きなことをして結果だけを提示して生きてきた。

 

過程が大切で結果に重要な意味はないと分かっていても、出来すぎてしまう自分に過程の重要さを叩き込むのは容易でなかった。

 

では、私はこれからどうして生きていこうか。

 

彼女の診察時間には、そんなことをずっと話し合っていた。

 

私がおかしいのは「性格」ではなく「性癖」

 

刑務所や少年院には娯楽がないので、退屈な時間が多く存在する。

 

そこで本を読むことが娯楽となるのだが、私は女医との話し合いによって心理学や自己啓発にハマっていった。

 

自分がどんな人間なのか、社会に中指立てて生きたいと願うのはなぜか、なにが気に食わなくて、どうなれば心から満たされるのか。

 

自分の考えていることや取り巻く環境、望むことを知りたくて、プログラム以外の時間はほとんど読書をして過ごした。

 

それは少年院を出院しても続き、ここ数年でようやくある事実に気付くことができた。

 

それは私がおかしいと言われるのは、性格ではなく性癖なんだと確信したのである。

 

ここから先は性描写が増えます。気分を害される可能性のある方は、読まないことをオススメします。

 

幼い頃から虐げられている方が楽だと感じていた

 

私は幼い頃、内気で無口な女の子だった。

 

主張することもなく、わがままを言うこともなく、母は「子育てってこんなに楽なの?と思ってた」と言うほどだ。

 

典型的な末っ子タイプの妹とは裏腹に、私は親にすらほとんどなにも話さないような子どもだった。

 

しかし、言いたいことがなかったわけではない。

 

ただ言えなかっただけで、自分の中の感情は鬱積していく一方だった。

 

私は非行に走り始めた頃から、暴力的な部分を持っている。

 

元々持ち合わせていたのだろうが、未だに怒ると物を壊したり人を殴りたくなる衝動に駆られる。

 

さすがにだからといって手を挙げることはないが、大人しい一方で、そういった暴力的な面がいつでもあった。

 

となるとベッドの上でもサディストなのか?と思いきや、私はマゾである。

 

暴力的な部分を解放すると、とてつもない虚無感に襲われる。

 

オナニー後や風俗帰りのあの気分である。

 

やってしまった、なぜだろう、こんなこと…そんな思考に囚われるので、極力、暴力的な部分を解放することを避けるように生きてきた。

 

マゾとしてサディストに虐げられるのは、暴力とは真逆である。

 

なのになぜマゾなのか…それはきっと虐げられていた方が、私が、楽だからだ。

 

暴力を振るえば、私は虚無感に襲われる。

 

そんな私は虐げられているのがお似合いで、逆らえない暴力で抑え付けられることに安心感や、生きている、愛されていると実感する。

 

私が好きなセックスは、皆さんの想像するセックスではない。人から見ればただ暴力を振るわれているだけ、痛め付けられているだけの、快楽とはほど遠いものに見えるだろう。

 

しかし、私は虐げられることに喜びを感じ、生きていると実感させてもらえる。それが愛する夫となれば、もっと愛を(暴力を)くださいとなるのだ。

 

私は自分を犠牲にするのが好きな、ダメ男製造機

 

性癖からも分かるように、私は自分を犠牲にするのが好きだ。

 

これは幼い頃からで、自分が悪者になって丸く収まるならそれでよかった。

 

誰かのために我慢をしたり、誰かのために責められたり、誰かのためにいじめの対象になることは、私にとって苦痛ではなかった。

 

我ながらおかしな話だと思うが、自己評価が異常に低いのが原因であろう。

 

となると、必然的にダメ男が寄ってくる。

 

私がダメ男に惹かれるのも不思議なことではなく、一回り以上歳上の男性を手取り足取り面倒を見ていた。

 

金銭面、精神面、肉体面、全てにおける面倒だ。

 

働かない、暴力を振るう、浮気に犯罪、とにかくろくでなしばかりを好きになる。

 

しかし、自分の性癖異常に気付いてから、私がダメ男に育てているんじゃないかと悟った。

 

私を好きになってくれる人は、私のために人生の全てを犠牲にしても構わないと言ってくれるような人たちだ。

 

しかし、私が好きになるのは、私が全てを犠牲にしても満足しない人である。

 

どんなに頑張っても褒めることのなかった母、どれだけ伝えても関心を持ってくれなかった父、いつも肩書きの立派な親戚一同と比べられ、あなたもそうなりなさいと幼稚園からプレッシャーをかけ続けられた。

 

その結果、暴力と犠牲という愛とはほど遠いものに愛を感じるようになったのだ。

 

性格は性癖とは真逆の、サバサバどストレート可愛くない女

 

マゾだからといって、実生活でもクネクネナヨナヨしているかというと、性格は全くの真逆である。

 

話しているだけなら私がビンタされて濡らす豚だと気付く人はいないし、そう打ち明けるとだいたい「絶対サディストだと思った!」と言われる。

 

女子特有の答えのない長話は大の苦手だし、女性と話すより男性と話す方が楽である。

 

恋愛相談や悩み相談を人にすることはほとんどないし、基本的には結果だけを伝える。

 

仕事においても人に任せるより自分でやった方が早いと思い、サクサクと自分の業務を進めていく。

 

おかげで仕事はできるが、協調性は皆無である。幼い頃から「みんなと何かをする」という作業が、苦痛で仕方なかった。

 

言いたいことは言うし、遠慮はしない。

 

嫌いな人には嫌いだと伝え、空気を読むことも気を遣うこともしない。

 

時間は有限なのだから、人には相性もあるし、そんなことで良い顔をするメリットはない。

 

だが、私の夫は真逆である。

 

典型的なA型で、どんなに気に食わない人にも外行きの顔をすることができる。

 

人見知りだと言いながら気さくに対応する姿に尊敬するが、実はそれがストレスになっていることも分かっている。

 

几帳面で真面目、言いたいことは相手の顔色を伺って言う。

 

そんな夫には何度も「はっきりしなさいよ」と言っているが、夜になれば首を絞められ虐げられるのは私である。

 

幼い頃の影響は人格でなく性癖に出る

 

私の人格が異常かといわれたら、正常だろう。

 

猫を遊びで殺す人間の気が知れないし、幼い子どもに手を挙げる親は総じて精神科に入院させろと思っている。

 

それが異常なら私は異常なんだと思うが、誰でもそう思うであろう。

 

困っている人には手を差し伸べ、助けてもらったらありがとうと言う。

 

できることは協力し合い、そうしていつか自分に返ってくると思いながら、日々社会の中で暮らしている。

 

普通の一般的な家庭では育っていないが、特段、人格に異常はないと自負している。

 

しかし、性癖が異常であることは確かだ。

 

私は死ぬことが最高の快楽だと思っている。

 

そして愛する夫に殺してもらうことが、私のたったひとつの望みだ。

 

性癖はそれぞれであるが、一般的に考えても私の性癖はおかしいだろう。

 

性癖というのは時に厄介で、精神科の治療では治らないこともある。

 

幼い子どもにムラムラするキチガイたちを治療する方法はない。

 

動物としてそこに性欲が湧いてしまうことを止めるのは、動物でなくすことになる。

 

それこそロボトミー手術のように外科的手術で思考を変化させること以外に、性癖を正常に戻すのは難しいだろう。

 

SMを好む女性の中でも特にマゾ体質の人は、過去に性犯罪に遭っている比率が高い。

 

レイプ、性的虐待、性犯罪、嫌な思いをしているはずなのに、なぜ?と思うだろう。

 

そこに人間の矛盾した心理が存在するのだ。

 

幼いときから満たされなかった子どもは、大人になって自由を得たとき必ず鬱積した感情が抑えきれなくなる。

 

それをセックスの中で相手の同意の上、解放できるのであれば、その人の性癖は正常であろう。

 

しかし、世の中には相手の同意なしに自分の欲を満たす性癖をお持ちの方々もいる。

 

それが虐待する親であり、性犯罪を犯すキチガイである。

 

彼らを治療し、一般的な性癖に戻すことは不可能だ。

 

鬱積した満たされない気持ちは一度満たされてしまえば、他のどんなことでも満たされるはずがない。事実、私はノーマルセックスではイけなくなってしまった。

 

暴力を振るわれないと不安になり、愛されているのかと自信をなくしてしまう。

 

だが、暴力を振るわれ、一般にはセックスでないただ虐げられるだけの時間を過ごすと、心はこれ以上なく満たされるのである。

 

では、他人に危害を加える性癖を持っているキチガイは、治療法がないならどうするべきなのか。

 

「見捨てる」という選択が正しいだろう。

 

社会が言っている「更生」や「完治」というのは、正直言って、綺麗事でしかない。

 

医療少年院に入って出直してこいと言いたくなるほど、現実を知らないんだなと思う。

 

残念だが、どの動物にも救いようのないものはいる。

 

大人が叱っても、罰を与えても、何度機会を与えても、更生できないものはいる。必ず、一定数、どの動物にもだ。

 

人間は優しいから、それでも見捨てずに社会の中で生かしてきた。しかし、いつまでそうするのだろうか。

 

少子化が進み老人が増え、働き手はどんどん少なくなる。

 

だが、出費は増える一方だ。

 

健全な働き手の人生をぶち壊し、快楽を得ている人間に対して見切りをつけることを、私は残酷だと思わない。

 

むしろ当たり前ではないだろうか。

 

自分の欲を満たすことは、なにも悪いことではない。

 

飲みたい、食べたい、行きたい、会いたい、やりたい、人は日々そうして自分の欲を満たしながら生きている。

 

そのこと自体は健全であり、当たり前のことであろう。

 

しかし、自分の欲のために人を傷付けていいはずはない。

 

そんな性癖を抱えることになってしまった本人にも同情するが、人間やり直そうと思えばいつでもやり直すことはできる。

 

環境だの親だの、いつまでもうだうだ人のせいにしているような奴が、40、50になって正常な思考を取り戻せる可能性はほとんどないだろう。

 

人は私を変わっていると言うけれど、変わっていない人などこの世に存在しない

 

物心ついたときには「変わってるね」と言われる子どもだった。

 

大人になるのが早すぎたのか、子どもらしい子どもでなかったのは確かだ。

 

アラサーになった今も出会う人ほぼ全員に言われるが、「変わっているのはあんただよ」と言いたい。

 

人は自分の経験を通して、物差しを持つようになる。

 

物差しの大多数を閉めればそれは「常識」や「普通」として扱われるようになり、大多数を占めない物差しは「変わっている」「おかしい」と言われるのだ。

 

日本人は自分の物差しと他人の物差しに違いがあると分かっていても、大多数がそうならそうなんだろうと、右向け右をする傾向がある。

 

狭い島国で自己を主張して生きることは難しかったのかもしれないが、私は違いがあると分かったら、大多数だろうが右を向かないだけだ。

 

それが可愛くない人もいるだろうし、わざわざ左を向くことないでしょうと思う人がいるのも分かっている。

 

協調性は皆無だが、そういった人が多く暮らす社会の中で自分も生きていることは理解している。

 

そこを履き違えると、ただの痛いバカな子になってしまう。

 

年齢と学歴は関係ないので、勉強はできても人として欠落している奴はそういう奴だ。

 

所詮他人の価値観でしかない「常識」や「普通」に囚われて苦しむのなら、自分の欲は自分で満たし、至極真っ当な顔して生きるのが善良な社会人でなかろうか。

 

こんな私が精神病だとは思わないが、専門家的には違うのであろう。