私はヘロイン以外の全ての違法薬物を体に打ち込んだ

 

先日逮捕されたピエール瀧氏とユニットを組んでいる石野卓球氏が、逮捕後に笑顔のツーショット写真を投稿したと反響を呼んでいる。

 

多くのファンはその姿にありのままの電気グルーヴを感じられたと喜んでいたが、一方、若者に悪影響を与えるのではとの声も聞かれた。

 

彼らを批判する人のほとんどは、違法薬物を使用した経験がないだろう。

 

「一度やったらやめられない」

 

そんな他人の経験を受け売りし、さも自分が経験したかのように物差しを振り回している。

 

しかし、日本にごまんといる薬物依存症患者を救う方法を、石野卓球氏は体現している。

 

私は13歳で大麻に手を出してから、ヘロイン以外の全ての薬物を経験した。

 

後悔などしていないし、反省?そんなものをする必要がどこにあるのか。

 

何も知らないくせに知った気になっている人へ、現実を教えよう。

 

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IQが高い人間ほど違法薬物を好む傾向がある

 

さて、まずはこの記事をご覧になって頂きたい。

 

www.bloomberg.co.jp

 

私の経験上、覚せい剤をやめられない人間というのは極端にIQが低い。

 

しかし、逆に、大麻にハマる人間は異常にIQが高い。

 

だから良いとか悪いとかの話をしているわけではなく、IQというのは人生と大いに関係がある。

 

興味を持つもの、生き方、進む道、手に取るもの、それらは脳の活動領域によって異なる。

 

人それぞれ価値観が異なるのは、見ている視点が人によって違うのだから当然であろう。

 

IQが高いと聞くと、一般的には勉強ができると思われがちだ。

 

しかし、学力とIQが比例するわけではない。

 

世の中には、高学歴なのに仕事のできない人がいる。

 

口から出てくるのは、「東大を出たのにこんな仕事は見合わない」という、正当化しているだけのクソみたいなセリフだ。

 

そういう人は勉強こそできるが、残念ながらIQは低い。

 

逆に、中卒で頭の回転が異常に早い人もいる。

 

学歴や肩書き問わずに人と話すことができ、会話の内容もテンポよく進む。

 

そういう人は勉強こそできないが、IQは高いのだ。

 

IQが高い人は、1の情報から10を汲み取ることができる。

 

人より多くの物事を感じて生き、ひとつの経験から多くのことを学ぶ。

 

となると、だ。

 

嫌なことや悲しいことを人より多く感じる分、幸せや喜びも人より多く感じることができる。

 

要は感受性の振れ幅が大きいため、他の人より「もっともっと」という幅も広くなる。そこで興味関心を惹かれるのが、違法薬物なのだ。

 

人間、誰しも二宮金次郎なので、「やってはダメ」と言われると余計に興味をそそられる。

 

特に私のような反抗心で生きている人間は、「やったこともないくせに、なにがダメなのか根拠を示せ」と噛み付きたくなってしまう。

 

そうして違法薬物に手を出すのだが、IQの高低差が出るのは「やめるとき」である。

 

バカは一生求め続け、賢い人間は限界があることを知る

 

私が最後に覚醒剤を打ち込んだとき、メモリ7まで覚せい剤を詰めた。

 

正直ネットに載っている致死量というのは嘘だし、メディアによって致死量の数字が違う。

 

その時点で、メディアがいかに適当なことしか言っていないかよく分かるだろう。

 

要は、人によって致死量が異なるので、絶対という基準は存在しないのだ。

 

通常、覚せい剤を打つ場合は多くてもメモリ2くらいしか詰めない。

 

量にしたら0.2~0.3ほどだ。

 

その2倍から3倍の量を打った私は、3日間記憶が飛んでしまった。

 

恐らく猿のようにセックスをしていたのだが、誰とどこでなにをしていたかまるで思い出せない。

 

幸いなことに死なずに済んだが、我に返ってふと思ったのだ。

 

「記憶が飛んでしまえば、楽しかったかどうかすらも分からない。そんなものに何万円もお金を出すのはどうなんだろう。」

 

そう考えるとなんだかバカバカしくなり、それ以来、一度も覚せい剤を打っていない。

 

それでも、やり続ける人がいる。

 

そういう人は一生刑務所の出入りを繰り返し、最終的には死ぬであろう。

 

大麻LSD、コカイン、MDMA以外の違法薬物には、快楽を得られる限界がある。

 

特にケミカル種と呼ばれる、覚せい剤・ヘロイン・アヘンには、多幸感を得られるピークが存在し、そのピークは一度しか訪れない。

 

「ピークは一度しかない」それは薬物を摂取していれば誰しも実感することができるので、やめるチャンスなどいくらだってある。

 

賢い人は満足できないと知ると呆気なく幕引きすることができるものの、バカは一生、たった一度のピークを再び感じようと同じことを繰り返すのである。

 

世の中には、口ばかり、人のせいばかり、理由を正当化し保身にしか走らない惨めな人間がいるだろう。

 

彼らはシャブ中と同じである。

 

賢い人間はなににでも、限界があることを知っている。

 

快楽にも、悲しみにも、限界がある。

 

快楽の限界を追い求め続けても、ピークが二度やってくることはない。

 

ならば、快楽へのアプローチを変えればいいのに、そうすることはない。

 

なぜか、バカだから。

 

悲しみはピークさえ超えてしまえば、乗り切ることができる。

 

真実は時に人を傷付けるが、前を向かせてくれる原動力となることは確かだろう。

 

覚せい剤や他の違法薬物が、一度やったらやめられないというのは嘘だ。

 

他人の経験を受け売りしただけの、くだらないキャッチコピーでしかない。

 

やめようと思えばいつだってやめられるし、問題は結局、自分がどうしたいかだけなのである。

 

身体的依存だの精神的依存だの、医者はとやかく言うが、意思で変えられないことなどこの世に存在しない。

 

いつまで経っても薬物のせいにしていれば、本人は楽だろう。

 

覚せい剤が悪い、私は悪くない。」

 

その時点で自分が保身に走っていることすら、バカは気付かないのだから。

 

違法薬物の種類と効果効能について

 

そもそも、違法薬物を正しく理解していないのに、違法薬物だからと一緒くたに叩く人間が多すぎる。

 

とりあえず全部やってから出直して、という感じだが、そんな根性もないから人を叩くことで自分の正義感を満たしているのだろう。

 

惨めなことこの上ない。

 

まず、日本で違法とされている薬物には以下の種類がある。

 

 

医薬品を乱用することも違法薬物に当たるし、シンナーやガスなども一応、違法薬物とされている。

 

だが、そんなものは中学生の頃に遊ぶレベルでしかなく、乱用を続けているのはメンヘラか救いようのないチンピラだけである。

 

代表的な違法薬物6種は、元々自然界の中にある物質と人工的に作られた物質に分けられる。

 

【元々自然界の中にある物質】

 

  • 大麻
  • コカイン
  • ヘロイン

 

【人工的に作られた物質】

 

 

正直、大麻以外の違法薬物は劇的に違いがあるわけではない。

 

しかし、それぞれに使い方、見合った状況がある。

 

受け売りしか知らないおバカさんへ、実際に使用した経験者から本物の効果効能を説明しよう。

 

大麻

 

まず最初に言うが、大麻はいくら吸っても死なない。

 

幻覚を見ることなどないし、幻聴が聞こえるとしたら、思い込みが激しすぎて日頃から面倒な人間であることがよく分かる。

 

効果はただぼーっと、アルコールを適量飲んだ感覚に近い。

 

眠気、食欲増進、セックスの快楽は増し、ちょっとやそっとのことは許せるようになる。

 

医学的見解には様々な意見があるが、医者でない私から言わせると、死の可能性があるアルコールはOKで、死ぬことはない大麻はダメという理由は理解できない。

 

アルコールを摂取して人を殺す人はいても、大麻を摂取して人を殺す人はいないのだ。

 

心穏やかになれる大麻は、基本的に家や気が許せる場所で、食事や映画を楽しみながら使用される。

 

クラブやアクティブな遊びには向かない、のんびりした薬物だ。

 

覚せい剤

 

覚せい剤は打つ方法と炙る方法があるが、ほとんどの人は炙りで使用している。

 

覚せい剤やってたよ!」

 

「打ったことある?」

 

「あるよ!」

 

「すげえええ!」

 

みたいな会話が行われることもしばしあり、何十年とシャブ中のくせに打ったことがないヘタレも多い。

 

覚せい剤を摂取すると、瞳孔が全開に開くので、光りを強烈に感じる。

 

また神経質になるため、ひたすら家の掃除をしたり同じことを数時間続けていたりする。

 

食欲はなくなり、眠気もなくなる。

 

セックスの快楽は増すが、相手が誰でも関係なくなるので、動物に返る(愛のないセックス)と私は呼んでいる。

 

また覚せい剤で最も特徴的なのは、切れ目だ。

 

暴れる、キレやすくなる、衝動的になる、理性が効かなくなる、などと書かれているが、それは人によって異なる。

 

寝ない、食べないで数日間過ごすため、その反動はどうしても大きい。

 

何日も寝込む人、誰とも口を聞かず静かに過ごしていたい人、暴れて当たり散らす人、覚せい剤の切れ目には最も人となりが出るのだ。

 

この切れ目の態度によって、友達が増えたり減ったりすることもある。

 

【コカイン】

 

コカインはコカの木という植物から採れる「アルカロイド」という成分を固めたものだ。

 

ケミカル種と思っている人も多いかもしれないが、麻酔に利用されることもある医薬品の一種である。

 

摂取方法の多くは鼻からの吸引であるが、歯茎などの粘膜に塗って摂取することも多い。

 

コカインは少量で効くのだが、効果時間がとても短い。

 

ピークは数十分ないし数時間程度で、覚せい剤が数日と考えると、なんとも効率の悪い薬物である。

 

なので、アメリカなどでは「お金持ちの遊び」と呼ばれている。

 

長く楽しむためには量が必要=お金が必要なので、貧乏人は他の成分が混じったまがい物を摂取している。

 

効果はテンションが上がり、音を鮮明に聞き分けることができる。

 

クラブやアクティブな遊びに使うにはうってつけで、正直、ピエール瀧氏がコカインで逮捕されたとき、やっぱりね!(もちろん良い意味でニヤニヤしながら、期待を裏切らない)と思った。

 

コカインだけを使用している人は少なく、ほとんどの場合、他の違法薬物と併用している。

 

それも効果時間が短いためであり、コカインだけを摂取することができるのは、ある意味お金持ちの証拠なのだ。

 

【ヘロイン】

 

ヘロインは違法薬物の最高峰といわれており、日本で手に入れることは早々できない。

 

ヘロインには、他の違法薬物と決定的に異なる点がある。

 

大麻覚せい剤、コカイン、LSD、MDMAは、摂取することで快感が得られる部分も少なからずあるが、使用してなにかをすることによって楽しさが得られる。

 

たとえば、セックスやクラブ遊び、クリエイティブな創作や集中する時間など、薬物を利用することでそれらが助長される面がある。

 

しかし、ヘロインは摂取するだけでなにもしない。

 

ヘロインは摂取すると摂取したときの体勢のまま、数時間ないし数十時間動かなくなる。

 

摂取するだけで快感を得られるため、なにかをする必要がないのだ。

 

目の前を人が通ったりなにか刺激を与えられても、同じ場所を見つめたまま動かずにいる。

 

摂取する=快楽というのがヘロインの決定的な特徴であり、それ以外にプラスアルファで行動する必要がない。

 

なので、ヘロイン常用者は時間と体だけを消費し、やがて快感は減っていくものの量は増えていく。

 

そうして最終的に死へ追いやられるのである。

 

まあ、日本でヘロインを手に入れることができる人は、救いようがないというか、関わってはいけない終わってるヤク中だろう。

 

LSD

 

インターネット、パソコンはLSDを摂取した状態で作り出されたものだ。

 

逮捕されたピエール瀧氏に伴って、電気グルーヴの音源等は全て配信が停止されたが、LSDを摂取した状態で作り出されたものは世に溢れている。

 

ヤク中の作ったもの=害があるもの、としてしまうと、この世のほとんどのものが消え去ってしまうことは間違いない。

 

LSDは病気を治療する薬を開発する途中で、偶然見つけ出された物質で、保存方法がとても難しい。

 

日本でも90年代から2000年代には容易く手に入れることができたが、現状出回っているLSDのほとんどがまがい物だ。

 

効果は幻想的な幻覚を見れることで、クリエイティブな人間はそれらの幻想からヒントを得てものを作ることがある。

 

アップルを創ったスティーブ・ジョブズLSD常用者であり、マックブックの起源といわれる「リサ」を創り出したときはキマっていた。

 

抜け感は覚せい剤やコカインよりも軽い反面、セックスなどの直接的な快感が得られるわけではないので、好き嫌いがはっきり分かれる。

 

絵を描くのが好き、音楽が好き、ものを作るのが好き、それらの人に好まれるため、ただのヤク中には最も縁遠い違法薬物である。

 

【MDMA】

 

MDMAはLSDに似ている違法薬物だが、どちらかというとLSDよりバカに近い薬物である。

 

主にクラブで利用することが多く、MDMAを利用して行われるのは音遊びかセックスだ。

 

現在日本で出回っているもののほとんどに混ぜ物と呼ばれる、意味不明の物質がカサ増しされている。

 

そのため昔に比べると飛び感は少なく、当時を知っている人間としてはお金を出して買う価値はないと思ってしまう。

 

音が鮮明に聞こえ、体の感覚が敏感になる。

 

しかし、神経質になり過ぎて「落ちる」という、嫌な感情で心が満たされることも多い。

 

それ故にパニックを起こすことも多いが、ほとんどの場合は数時間だけ恐怖に耐えれば問題は収まる。

 

常用したところで楽しさが得られるのはクラブなどの施設へ行く必要があるため、普段からずっと使用している人はほとんどいない。

 

特定の場所へ行くときだけ、特定のなにかをするときだけ、使用する違法薬物である。

 

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一通り違法薬物を経験して思うこと

 

正直、どうでもいい。

 

経験したからこそ見えた世界もあったが、知る必要があるかといわれたら絶対ではないだろう。

 

興味があるならやればいいし、嫌だと思うなら無理にやる必要はない。

 

私が違法薬物に手を出したのは、単純に興味本位だった。

 

周りの友人がやっていたこともきっかけのひとつであるが、そういった世界を見てみたい気持ちがあった。

 

元々、画家になりたいと思っていたこともあり、大麻LSDにはずいぶんお世話になった。

 

摂取し、絵を描く。

 

摂取し、音楽を聴く。

 

摂取し、自然の中を歩くことで発想を得た。

 

セックスを目的に使用することも多かったが、そのために依存するようなことはなかった。

 

違法薬物の中でも特に覚せい剤に関しては、セックスにハマってしまいやめられない人は少なくない。

 

その快感は言葉に表せないほどで、たとえ見ず知らずの人間に犯されても、覚せい剤を摂取していれば信じられないほど感じるだろう。

 

欲深い人間はそうしてどんどんハマっていくわけだが、最初に述べたように快楽には限界がある。

 

それに気付くことができる人間は、使い続けることをしない。

 

違法薬物で逮捕される人間はいつの時代も後を絶たないし、これからも無くなることはないだろう。

 

人間がこの世に存在する限り、欲も存在するのだ。

 

しかし、闇に堕ちてしまった人間をどうするのか、という課題は未だ残されたままである。

 

日本は特に違法薬物に対しての偏見がひどく、社会で更生させる機会をほとんど与えていない。

 

私も自身の経験を明かすことにリスクを感じたが、少年院卒となれば失うものなどなにもない。

 

薬物を摂取したことがあるというだけで、人は色眼鏡で見る。

 

ピエール瀧氏に対しても同じで、ほとんどの人は彼の人柄や経歴を無視して手のひらを返した。

 

それが当たり前の反応だといえばそうかもしれないが、人間、誰しも罪を犯すものではないだろうか。

 

ピエール瀧氏を叩く様子を見て、私はこう思った。

 

「罪を犯したことがない者だけが石を投げよ、と言ったら、このうち何人が石を投げられるのだろう。」

 

きっと、ひとりもいないだろう。

 

私は違法薬物を摂取した過去を過ちだとは思っていないし、少年院に入ったことは有り難く思っている。

 

石野卓球氏の姿勢には多くの批判が寄せられていたが、彼は薬物を使用したピエール瀧氏に対して一切の色眼鏡がない。

 

違法薬物をやって迷惑をかけたダメな奴、ではなく、彼の中でピエール瀧氏は、どんなピエール瀧氏もピエール瀧氏でしかないのだ。

 

連帯責任だのグループとしてあの対応はない、と批判されていたが、彼が罪を犯したわけではないのに、なぜ謝る必要があるのか教えてほしい。

 

では、非行少年の通う学校は事件を起こされる度、全校集会や保護者会を開いて「我が校の教育に問題があった」と謝罪するのか?

 

そんな学校は見たことがないが、必要のないことをしていた自分たちの足元をよく見るべきである。

 

こんなクソみたいな社会も常識も、許してニャンで十分過ぎるほどだ。

 

興味を惹かれた時点で「でも犯罪だよな…」と、踏み止まらない人間はいない。

 

誰しも犯罪だと分かった上で、違法薬物に手を出している。

 

理性で抑えられなかったといわれれば、確かにそうだ。

 

しかし、不倫も露出して出歩くことも、ワンナイトラブも痴漢も強姦も、理性が働かなかった結果だろう。

 

種類は違えど、同じ理論であることは間違いない。

 

それを自分のことは棚に上げて、不要な正義感を押し付ける人間があまりにも多い。

 

そういう奴らに限って、シャブ中になること必須なのだ。

 

なぜか分かるか?

 

バカだからだ。

 

経験のひとつとして違法薬物があっていいと私は思うし、やりたい奴は好きにやったらいい。

 

だが、そうすることで人に迷惑をかけることは話が別だ。

 

私も親や友人を心配させたことについては、猛省した。

 

母に「自分の体を痛めつけることはしないでほしい」と言われたとき、この体は自分のものだけではないと気付いた。

 

少なからず心配してくれた人間に対して、ピエール瀧氏も誠意を持って対応する必要はある。

 

しかし、それ以上になにかをする必要はない。

 

絶対に、ない。

 

失望したというファンもいたが、そんなファンはただのぽっと出の、口だけ野郎である。

 

お金を落とすほどのファンは石野卓球氏もピエール瀧氏も、電気グルーヴという存在をよく理解している。

 

でなければ、わざわざ警察署まで行って「頑張れよ!」と言う必要などないのだ。

 

あの応援は世間に対しての応援ではなく、ピエール瀧氏個人の人生に対する応援であろう。

 

違法薬物を摂取していた、その経験も含めて彼である。

 

あの場でそう叫んだファンは、石野卓球氏と同じで、どんなピエール瀧氏もピエール瀧氏でしかないのだ。

 

違法薬物ごときでさじを投げるのであれば、遅かれ早かれ離れていくことは目に見えているだろう。

 

私も違法薬物を摂取しているのが友人にバレたとき、「見損なった」と言われたことがある。

 

なにをだ?

 

自分の期待に沿わない人間だから見損なっただけであって、私は相手に対して「私をこんな人間だと認識してほしい」と頼んだ覚えはない。

 

オナニーを見せ付けておいて、セックスしてくれるって言ったのに!と言われても、そもそもお前を抱くなんて一言も言ってないけどね!という感じである。

 

むしろ、見たくもないオナニーを見せつけられた、こちらの気持ちを考えてほしいくらいだ。

 

気持ちが悪い。

 

気持ち悪いんでもキモいんでもなく、気持ちが悪い。

 

それを理解できないバカが石野卓球氏に噛み付き、クランケと呼ばれ、見るも無残に身ぐるみを剥がされているのである。

 

滑稽以外のなにものでもない。

 

問題は、違法薬物を摂取した人間にどのようなチャンスを与えるか、ということである。

 

過去を振り返っても、得られるものはそう多くない。

 

どうせなら、前を向いて生きた方がお得じゃないだろうか。

 

罪を犯した人間に必要なのは「見守ることだけ」

 

見守ることと、上から目線で説教を垂れることの違いを理解していない人間は多い。

 

先ほども述べたが、違法薬物を使用している人間は違法だと分かって手を出している。

 

逆に違法だと分からずに手を出しているなら、そいつは救いようがないから見捨てていい。

 

人は誰しも間違いを犯すし、時に人を傷付ける結果となることもある。

 

誰しも、だ。

 

間違いを犯さずに生きられる人間は存在しないし、大なり小なり人は間違いを犯しながら生きている。

 

万引きだから軽い、殺人だから重いという罪の重軽は存在しない。

 

違法薬物に対して色眼鏡を持っている人は、犯罪に対して大小の区別を付けたがるが、それは「区別」ではなく「差別」である。

 

その違いすら分からないから正義感を振り回しているわけだが、そういう人間が罪を犯した者のチャンスをことごとく潰しているのである。

 

違法薬物を摂取した人間に、「やめろ」と言う必要はない。

 

いいじゃないか。

 

他人を縛り上げて薬物を摂取させるのであれば別だが、自分の体に自分の意思で毒を打ち込んでいるだけだ。

 

害しているのは自分の体であって、誰かの体ではない。

 

好きにさせたらいい。

 

今回の逮捕でピエール瀧氏が薬物をやめるかは不明だが、自分の意思で毒を打ち込んでいる以上、どのタイミングでやめるかを決めるのも本人だ。

 

逮捕がきっかけかもしれないし、単純に飽きてやめる人もいる。

 

誰かが亡くなったことをきっかけにというパターンもあれば、やめる前に死ぬ人もいる。

 

そいつの人生だ、好きにさせてやれ。

 

受け売りでしかない自分の物差しで他人の経験を測定し、頼んでもいないのに説教を垂れ、さも自分は神様かのような顔をして、偉そうに人の人生に口を出してくる。

 

誰も頼んでないぞ?大丈夫か?またオナニーの見せつけか?

 

だったら頼むよ、他でやってくれ。

 

頼んでないんだから。

 

  • 彼がこれからどうするか見守る
  • そのために自分にできることがあるか考える

 

必要なのはこのふたつだけである。

 

見守るというのは、口を出すことでも手を出すことでもない。

 

自分にできることというのは、説教を垂れることでもオナニーを見せつけることでもない。

 

石野卓球氏が素晴らしいと思うのは、それができているからである。

 

ほとんどの人間にそれはできないし、無意識のうちにオナニーを見せ付けていることすら分かっていない。

 

もしも、社会の中で、違法薬物を摂取している人間に出会っても「だから?あっそう」でいいのだ。

 

お前もやれよと誘ってくる人間ならば、その時点で切ってしまえばいいし、なにかするわけでないのであれば、そのままの関係を続けたらいい。

 

最後に聞きたいことがある。

 

「あなたは人の人生に口を出せるほど、立派な人生を生きているのか?」

 

まとめ

 

日本人は特にそうだと思うが、誰かが叩き始めると、自分も叩かなくてはという無駄な焦燥感に駆られる傾向がある。

 

右向け右の精神がそこにあるわけだが、私は右向けと言われたら迷うことなく左を向く。

 

どうして人に言われたことを、私が聞かなくてはいけないのか。

 

お前の人生か?私の人生だ。

 

人は誰しも罪悪感を持って生きているし、話せないことがあるのは当たり前中の当たり前だろう。

 

過去の過ちをいつまでも持ち続けるより、そんな過去も受け入れ進んでいく方が、たった一度の人生を楽しめるのは間違いないだろう。

 

犯罪者にその権利はない?

 

では、この世の全員が生きているだけで地球に迷惑をかける犯罪者なわけだが、自分は違うと思っているのか。

 

死んでどうぞ。

 

私は今後もピエール瀧氏には変わらずいてほしいと願うし、至極当然の顔をして人生を楽しんでくれることを心から祈っている。

 

たとえまた罪を犯したとしても、だから見捨てる理由にはならない。

 

なぜか、人が罪を犯すのは一度ではないからである。

 

誰しも死ぬまで罪を犯し続け、その度になにかを学び、またひとつ人生を楽しむ理由を見つけていくのだ。

 

人にオナニーを見せ付けて満足しているような人間に、愛のあるセックスの価値が分かるわけがない。

 

オナニーの見せ合いは、セックスではない。

 

いいか?

 

勃起したちんちんとビチョビチョに濡れたまんこがそこにあって初めて、セックスというのは成り立つのだ。

 

ちんちんを勃起させるためにも、まんこをビチョビチョに濡らすためにも、必要なのは「愛と思いやり」である。

 

己の自己満足のために満足感を得ようとしているのなら、それは痴漢や露出魔と同等のゲス野郎である自覚を持った方がいい。

 

やりたいならやれ、打ちたいなら打て。

 

死にたいなら死ぬ自由があるし、それを止める権利など誰にもない。

 

けれど、それでも、生きていてほしいと願うのなら、手を出すのも口を出すのもやめて、愛と思いやりだけで包み込んでやればいい。

 

そんなこともできないくせに、物差しを振りかざす多くの人間がいることこそ、恐怖しか感じないのだ。

 

罪に必要なのは、愛だけ。

 

それ以外に必要なものなど、この世に存在しない。

いじめる側もいじめられる側も経験して思うこと

私は今では想像が付かないほど、内気で無口な子どもだった。

 

特に両親が離婚してからは、学校へ行っても友人と一言も口をきかない日もあった。

 

いじめを受け始めたのは両親が離婚してすぐの、小学校4年生から。

 

中学2年生で非行に走るようになってからは、いじめる側に回った。

 

昨今のいじめのほとんどが、死に直結するほど陰湿で残酷なものになっている。

 

悲しいが、いじめがこの世から無くなることはないだろう。

 

人は人に対し、優劣を付けたがる生き物だ。

 

特に若い頃は視野も経験も少なく、学校という閉ざされた世界の中で子どもは自分の存在意義を見出そうとしている。

 

自分より劣っている、自分より優れている、そんな感覚からいじめが生まれることを根絶する方法は存在しない。

 

だが、いつも言っているが、物は考えようだ。

 

子どもを救えるのは、大人だけである。

 

大人の皆さんに、どちらも経験した私の意見をお伝えしよう。

 

いじめられる方にも、いじめられる理由がある

 

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悪いが、綺麗事を言うつもりも、いじめられている子どもを擁護する気もない。

 

思っていることしか言わないので、今後、言葉がきつくなってしまったら申し訳ない。

 

先ほども述べたが、人間は他の人に対して優劣を付けたがる生き物だ。

 

会社にも「あいつは仕事ができない」「私はめちゃめちゃ仕事ができる」と偉そうに言っている人がいるだろう。

 

いじめも同じ思考で、いじめる側は自分よりも劣っている人間をターゲットとしている。

 

ということは、だ。

 

いじめる側は少なからず、いじめる人間を選別している。

 

どこかしら自分よりも劣っていて、いじめやすい人間。

 

自分が相手よりも上に立つことができて、そうすることで自分の存在意義を見出せる人間。

 

そんな人を選んでいじめている。

 

いじめる側が相手を選んでいるということは、いじめられる側には選ばれるだけの理由があるということだ。

 

たとえば、私のように極端に内気で無口な場合、なにをしても反撃してこない。

 

いじめやすいことこの上なく、どんなにやっても先生にチクられる心配がない。

 

要は、安心して自分が上に立てる相手なのだ。

 

よく「いじめられる側にも理由がある」と言うと、発狂する人がいる。

 

綺麗事を抜かすだけなら「いじめる側が100%悪い」と私も言うが、綺麗事だけを言っていても自殺する子どもが減るわけではない。

 

先生たちは一度いじめる側の立場に立って、「いじめやすい子ども」という視点で生徒を見てみたらいい。

 

簡単に分かるだろう。

 

そういった生徒に注視していれば、優劣を付けたがる人間がどの子どもかも必然的に見えてくる。

 

では、指導が必要なのはどちらの生徒だろうか?

 

心に問題を抱えているのは、圧倒的にいじめる方

 

どちらにも問題があるのは当然だが、いじめる側の方が圧倒的に心の闇は深い。

 

自分に自信がある人間は、他人に優劣など付ける必要がないことを理解している。

 

たとえ子どもでも、だ。

 

人は潜在的に生きる意味を求めながら生きているので、他人と優劣を付けることは無意識に行なっている。

 

しかし、自分に自信と誇りがあれば、優劣がどれだけ価値のないものかも知ることとなる。

 

自分に一切の自信がなく、生きている価値を見出せず、誇りすら持てない。

 

となると、その矛先が他人や環境へ向くのは当然で、非行に走った少年少女が「親が悪い」「学校が悪い」「私は間違っていない」と言うのは、そのためである。

 

誰かのせいや何かのせいにしてしまえば、生きやすくなるのは当然だろう。

 

なぜなら、理由を正当化することで自分の存在に自信を持てるからである。

 

しかし、悲しい哉、そういう人間は一生、理由を正当化しながら生き続けなければならない。

 

そうすることでしか自分に自信を持てない人間は、いつまで経っても他人に優劣を付けて人を踏み台にしなければ生きていけないのである。

 

この辺の真理に気付いていない人間が上司になると、部下は死に追いやられるわけである。

 

それが夫だったら、妻だったら、親だったら、ハラスメントないしネグレクト化するのは当たり前だろう。

 

では、そういう人間を早い段階で減らすために、先生になにができるか。

 

正直、いじめられる側のことなど放っておいていい。

 

いじめさえ受けていなければ、普通に学校へ通い普通に暮らしていける子がほとんどだからである。

 

たとえ学校生活がつまらなくても、いじめさえなければ学校へ行く子どもは腐るほどいる。

 

問題解決を目指すのであれば、指導するべきはいじめる側の子どもだ。

 

親との関係、彼や彼女の見ている景色、なぜ他人に優劣を付けたがるのか、自分に自信や存在意義を見出せないのはなぜなのか。

 

それらを知ることで、子どもに優劣を付けさせることなく自信を持たせることができる。

 

いじめる側のほとんどの背景には、親がある。

 

貧困や虐待、逆に優秀な家に生まれて虐げられていたり、自分もそうならなければならないというプレッシャー。

 

子どもにとってこの世はたったふたつ、学校か親しかないのだ。

 

そこに理由があるのは確実で、問題を解決できるヒントもそこにしかない。

 

何度言っても分からないなら、見捨ててしまえばいい

 

最近の親は神経質で自分に自信がないから、自分の子どもも信じていない。

 

それを他人や先生、学校のせいにすることで、自分と子どもは間違っていないと確認したがる傾向がある。

 

どうでもいい、くだらない親が増えすぎだ。

 

そもそも躾として手をあげるとき、多くの場合「他人や物を傷付けてはならない」という意味で手をあげている。

 

嘘をつくことも、物を壊すことも、他人に暴力を振るうことも、やるべきことをやらないのも、自分だけでない誰かや何かを傷付けている。

 

それらの理由なしに自分の感情だけで叩くから、虐待になるわけだ。

 

先生だって親だって、最初から頭ごなしに叩くわけではないだろう。

 

(もちろんそういう、人として欠落した人間がいるのは百も承知だ。そんな人間は早めに死ぬようにできているから、どんどん排除したらいい。税金で養うのも無駄だから、虐待して子どもを殺した親は総じて死刑でいい。)

 

最初は口で言って聞かせ、それでも何度も同じことをするから、手が出るわけだ。

 

大人にもいるが、「言っても分からない人間」というのは一定数存在する。

 

ゴリラの群れをよく見てほしい。

 

複数の家族がコミュニティーを作って群れとなっているが、最初は親子関係なく大人が子どもを注意する。

 

悪いことをすれば叱り、時に手をあげて「ダメなものはダメ」と教える。

 

それでも分からない場合どうなるか。

 

見捨てるのである。

 

置き去りにし、見捨てて、先へ進む。

 

そして二度と、そのコミュニティーには参加させない。

 

残酷に感じられるかもしれないが、ゴリラたちはそれまで何度もそいつに対して情をかけ、時間をかけ、気をかけて言い聞かせてきた。

 

それでも気付かず、分かろうとしない。

 

そんな奴に対して見捨てるという選択をすることのなにが、残酷だというのだろうか。

 

子どもだから、と言っている人をよく見かけるが、子どもにも人は殺せる。

 

人の一生を奪うことは簡単にできるし、子どもだからと言ってしまえば、その子は「子どもだから許される」と自分のしていることを正当化し始める。

 

そうしてロクでもない人間が形成され、今度は社会で、会社で、他人をいじめ始めるのである。

 

上司だから、夫だから、妻だから、親だから、そうして理由を正当化して死ぬまで他人を傷付けていくのだ。

 

何度言っても分からない、何度訴えても聞く耳を持たない、そんな子どもがいたら、見捨ててしまえ。

 

「あなたは人を傷付けている。そうしてはいけないと何度も言ったのに、あなたは変わろうとしなかった。申し訳ないが、そのような人間をここに置いておくわけにはいかない。世界の中心はあなたじゃない。」

 

そう拒否してしまえば、行き場がなくなる。

 

死ぬ子もいるだろうし、発狂する子もいるだろう。

 

親に泣きつく子もいるだろうし、先生のせいだ!あいつのせいだ!と喚き散らす子もいるだろう。

 

だからなんだ?なにが間違っている?

 

見捨てられて当然だ。

 

しかし、人間は動物でも理性がある。

 

衝動を抑えることができるし、感情だけでなく理性で物事を考えることもできる。

 

それが人間の良いところで、見捨てる先にも手を差し伸べる方法はあるのだ。

 

見捨てたフリができるのが、人間に更生のチャンスが与えられている理由

 

かくいう私も元犯罪者なわけで「見捨ててしまえ!」と言われると、「おいおいまじかよ…」と寂しい気持ちになる。

 

ゴリラも人間も同じ動物であるが、人間には唯一理性がある。

 

セックスしたくても、公共の場で衝動的に人を襲う人間はいない。

 

いるにはいるが、そいつらの話は論外だ。

 

どうするべきか、どう動くべきか、なにをしたら望みが叶うのか、そんなことを考えるとき、人は感情だけでなく理性も使って思考を巡らせている。

 

それが人間の良いところなのだ。

 

見捨てるのは簡単だ。

 

見捨てるまでは思い悩むかもしれないが、排除してしまえばそこにいる全員が楽になることは間違いない。

 

しかし、それでは寂しいだろう。

 

情が残ることもあるだろうし、行く末が気掛かりなことも大いにある。

 

そこで人間だけにできる解決法が、「見捨てるフリ」だ。

 

特に子どもにはこの方法が効果的で、大人の場合は見捨ててしまえばいい。フリなど必要ない。

 

ただし、ひとつだけ注意点がある。

 

絶対に、中途半端な見捨て方をしてはいけない。

 

絶対に、だ。

 

一歩間違えれば口だけだと思われかねない危険なチャレンジではあるが、その効果は絶大だ。

 

しかし、注意点には細心の気を遣いながら行ってほしい。

 

学校に居場所のなくなった子どもは、家庭に居場所を求めるかもしれない。

 

その期待に応えられない家庭であれば、子どもは家を出る(非行に走る)か死ぬだろう。

 

もしくはネットに居場所を求めるかもしれないが、そうなってくれたら万々歳である。

 

今の時代は学校で無駄なことを学ぶくらいなら、ネットの知識を身に付けてメシを食うことはいくらでもできる。

 

最も避けたいのが、死ぬことだ。

 

だが、人をいじめるような人間はそう簡単には死なない。

 

優劣を付けたがる人間は、無意識に常時、対象物を探している。

 

その矛先が自分に向くと「死」という概念が生まれるのだが、「自分は劣っていない」という証明をするために生きている人間にその概念はない。

 

矛先のほとんどは親か社会へ向く。

 

罪を犯せばいいし、逮捕されればいい。

 

そうしなければ分からないのなら、いくらでも捕まってどうぞ。

 

逮捕された先にも、彼らを救う手立てはある。

 

そんなクソ人間を更生させようとしているのが、刑務官だ。

 

彼らは素晴らしい人間だと思うし、彼らは誰よりも情深い人間であろう。

 

だからこそ感謝しているし、これからもなるべく力を使わせないようここからできることをしていく。

 

人は誰しも、ひとりでは生きていけない。

 

家族がいる、親がいる、結婚している、そんなくだらないことではない。

 

社会という場所で生きている以上、接する人間がゼロになることは絶対にない。

 

ネットを介して仕事をしても、請け負う人間と依頼する人間がいる。

 

WEB媒体のライター契約は顔合わせもしないことが多々あるが、ネットを介して人と人の繋がりは存在する。

 

たとえ見捨てたとしても、人間は70億人いるのだ。

 

どんな人間にも必ず手を差し伸べる人がいるし、最終的に誰も手を差し伸べないような人間ならば、そうなって当然なだけの理由があるのだろう。

 

ハリーポッターのとあるシーンで、主人公のハリーが死んだとき、ベンチの下に小さく丸まったヴォルデモートがいた。

 

血まみれで震え、今すぐに助けないと死んでしまうような状態だ。

 

そんなヴォルデモートを見たダンブルドア校長は、ハリーにこう言った。

 

「救いようがない人間というのは、一定数いる。仕方がないというのは、諦めることでなく前へ進むことなのだよ。」

 

相手にとっても、自分にとっても、だ。

 

自分が変われない理由を他人のせいにしている人は、いつまで経ってもそのまま

 

発狂する親、それを利用する子ども。

 

この親子が幸せになれることはないし、自分の存在意義を見つけられる日も来ない。

 

私が逮捕されたきっかけは友人によるチクりだったわけだが、あいつのせいで…と一生恨むこともできる。

 

両親が離婚したから、頼んでもないのに名家に生まれたから、友人にチクられたから、私の人生が他の人とは違う理由を探そうと思えばいくらだって見つけられる。

 

しかし、それで事態が好転するのだろうか。

 

絶対にしない。

 

断言する、やるだけ無駄だ。

 

明日死なない保証などどこにもないのに、身も蓋もないことに時間を使うのは賢いといえない。

 

嫌なら行かなきゃいい、気に食わないならやめたらいい、逃げ続けることは決して不正解ではない。

 

逃げ続けた先には「逃げ続けた」という成果が残る。

 

そこから見える景色は、自分の力で手に入れたものだ。

 

無駄じゃないし、必ず結果につながる。

 

まとめ

 

結論から言うと、いじめられる方もいじめる方もお互い悪い。

 

人のせいにしているからだ。

 

いじめられるのが嫌なら、学校になんて行くな。

 

親が心配する?

 

親は死ぬまで心配している、今に始まったことではない。

 

迷惑をかける?

 

人は息をしているだけで二酸化炭素という毒を撒き散らしているのだ、そもそも存在が迷惑なのに何を言っている。

 

勉強したいならYouTubeですればいいし、学歴が欲しいなら卒業資格を取得すればいいだけだ。

 

友人などいくつになっても作れるし、人となりが良ければ頼まなくても人は自然と集まってくる。

 

人をいじめなければ自分の存在意義を見出せない奴は、クズだ。

 

やめてほしいと言ってもやめないのであれば、ゴミクズより存在価値などない。

 

そんな奴らのために命を捨てるな。

 

構うな。

 

相手にするな。

 

逃げろ。

 

親や先生が聞かないなら、親と先生も捨てちまえ。

 

そんな親と先生に価値などない。

 

人と自分を比べても得られるものは、ネガティブなものだけだ。

 

決して自分を良くはしてくれない。

 

自分はどうしたいのか、どう在りたいのか。

 

それだけを考えて答えを出せば、自ずと自信は付いてくる。

少年院卒の私を愛した祖母の話

 

明日、5月20日は祖母の80回目の誕生日だ。

 

もうこの世にはいないが、あの世からロクでもない孫を忙しなく見てくれているだろう。

 

私は家庭の事情で、祖母に育てられた。

 

母でもなく、親でもない。

 

しかし、私にとっては母であり、親であり、そして唯一の支えであった。

 

こんな孫に最後まで愛してると言い続けた、変わった祖母を紹介しよう。

 

愛しなさい、見返りはない。それでも愛すのよ。

 

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私から見ると、祖母はマザーテレサのようだった。

 

お金がないと言われると、その日知り合った人にも貸していた。

 

返ってこなくて構わない。

 

なぜなら、食べれないことは悲しいことだからだ。

 

誰かの悲しみを減らせるなら、たったいくらかくらい容易い御用だと、そう言っていた。

 

15歳から死ぬ半年前まで仕事を掛け持ちし、株を運用し、社員になったことは一度もないのに、遺産は数億あった。

 

そしてそのお金のほとんどを、誰かにあげていた。

 

募金や支援、人助けのために使い、自分のためにお金を使っているところはほとんど見たことがない。

 

そんな祖母に初めて恋愛相談をする日があったのだが、相談内容は「初めての彼氏が浮気症のDVだ」という祖母としては聞きづてならない内容だ。

 

母は発狂し別れろと騒いだが、祖母はこう言った。

 

「愛しなさい。見返りはない。それでも愛すのよ。」

 

まあ、バカなんだろう。

 

だが、いい意味でのバカだ。

 

ぶっ飛んでいる。

 

そうして私は祖母に言われた通り、彼を愛し続けた。

 

どんなに背を向けられて裏切られても、私だけは誠実に彼だけを見ていた。

 

その結果、私が過去付き合ってきた人は全員、私と別れた後、今でも独身でいる。

 

彼女すらいない。

 

どうしてかと思うが、正直、私以上に人を愛せる人はいないからだろう。

 

祖母は常々、期待するなと言っていた。

 

人は経験を積む毎に、自分に驕りを抱いていく。

 

偉そうに、一丁前に、いつからか感謝も忘れて全てを当然だと思い始める。

 

してもらって当たり前、できて当たり前、いつも通りで当然。

 

しかし、そういかないこともある。

 

そんなとき相手のせいにするのは、相手に期待しているからだ。

 

期待し、見返りはあって当然だと信じている。

 

勝手に脳内オナニーしているだけなのに、セックスできないのはお前のせいだ!と騒いでいるのである。

 

あぁ、痛すぎる。

 

人は人、自分は自分だ。

 

あげたものを返せというのはダサいのと同じで、愛する人に愛を返せというのはダサい。

 

愛は減るものじゃないんだから、くれてやればいい。

 

お金は回りものだ、足りないなら身を粉にして稼げばいい。

 

見返りを求めている時点で、あなたは相手を愛していない。

 

それはあなたのエゴを押し付けて自己満足しているだけの、オナニーに過ぎないのだ。

 

伝えなさい。声に出しなさい。人はひとりじゃ生きていけない。

 

私は病的に内気な子どもだった。

 

今でも、言いたいことを言うのは得意ではない。

 

しかし、言わなくても分かってもらえるだろうと思っている節があった。

 

親に対しても、彼に対しても、友人に対しても、ここまで言えばあとは分かるよね、と期待していたのである。

 

だが、その期待が叶ったことはほとんどない。

 

そりゃそうだろう。

 

言っていないのだから、分からなくて当然である。

 

しかし、私は言う、伝える、という選択をせずに、誰にも何も言わずに独りで生きることを選んだ。

 

全てを自分で解決しようとし、何もかもをひとりで背負ってきた。

 

そうして生きることはできるが、限界がある。

 

コップから溢れた水はすくうことも、戻すこともできない。

 

キャパシティーを超えてしまえば、人間は壊れるだけだ。

 

そうして発狂する私を見て、祖母はこう言った。

 

「伝えなさい。声に出しなさい。そのために口が付いているのよ。人はひとりじゃ生きていかれないんだから。」

 

最初は怖かった。

 

自分の思いを相手に伝えると、嫌われるんじゃないかという恐怖で頭がいっぱいになった。

 

だが、よく考えてみれば、70億いる人間全員に好かれようと思う方が、無理な話ではないだろうか。

 

嫌われてもいいと思うようになってから、人と話すのが楽になった。

 

私を好きな人間がいるのだから、嫌いな人間もいて当たり前だ。

 

気に食わない奴もいるだろうし、心底恨んでいる人間もいるだろう。

 

だから、なんだ?

 

それが一体なんだというのだ。

 

私は頼られるのが好きだ。

 

甘えられるのが好きで、お願いされると自分のことを後回しにしてでも手を差し伸べたいと思ってしまう。

 

それが信頼であり、愛の証だ。

 

ならば愛には愛でお返しし、信頼には背を向けることなく応える。

 

それが私という人間であり、私の生き方である。

 

誰しもひとりでは生きていけない。

 

人の話を聞くために耳があり、気持ちを伝えるために口がある。

 

言葉にならない思いを伝えるために目があり、優しさを分け合うために手がある。

 

愛を伝え合うためにセックスをし、人を助けるために足がある。

 

自分が今持っているものは体を含めて、全て誰かのためにあるのだ。

 

それを自分のためだけに使っていれば、他人も自分のためにしか使わなくて当然だろう。

 

言いたいことを言うのは、正しいことだ。

 

言っていることが正解か不正解かはさておき、思いを口に出すことに罪はない。

 

嫌われろ。

 

大嫌いだと恨まれたらいい。

 

それでも絶対に背を向けてはいけない。

 

やったことがそっくりそのまま返ってくるのが、人の生きる道だから。

 

ばあちゃんの最後の言葉は「誰よりもあなたを愛してる」

 

私は祖母の介護をひとりで全て行なったが、それは私から祖母への最後の孝行だった。

 

母や家族が手を貸そうとしたこともあったが、金銭的にも体力的にも私は全て自分でしたかった。

 

させてほしいと、お願いしたのだ。

 

貯金は全て吹き飛び、仕事はろくにできなかった。

 

クライアントには迷惑をかけ、友人とは祖母が亡くなるまで一度も会わなかった。

 

美容院に行くこともなく、遊びにも行かず、祖母に残された時間をどれだけ一緒に過ごせるかだけを考えていた。

 

祖母が亡くなる前日、朝の6時。

 

モルヒネで意識が朦朧としている祖母は朝日に当たりながら、泣いて、私にこう言った。

 

「世界中の誰よりも、あなたを愛してる。愛してるわ。」

 

もしも神様がいるなら、生かしてくれと心から願った。

 

人に対して「死んでほしくない」という感情を抱いたのは、それが初めてだった。

 

けれど、人は生まれたその瞬間から死へ向かって生きている。

 

遅かれ早かれ、人は必ず死ぬ。

 

別れがある。

 

だから一期一会という言葉が存在し、思いやりがあり、愛がある。

 

お金で買えないものの方が大切だと潜在的に分かっているのは、いずれ死ぬと誰しも理解しているからである。

 

大切にする、というのは難しいことだ。

 

シンプルなくせに、上手くいかないことの方が多い。

 

だからこそ、大切にする価値がある。

 

思い悩み苦しんで、それでも前へ進もうとすることこそが、大切にするということなのだ。

 

愛は絶対に、人を裏切らない。

 

もしも裏切られたなら、それは愛でない。

 

セックスしてるつもりで、オナニーしていただけである。

 

まとめ

 

少年院に入ったことを手紙で祖母に伝えたとき、祖母からの返事はこうだった。

 

「あなたが今いる場所を私は知りません。知っているのは、罪を犯したものが送られる場所だということだけです。ですが、どんなあなたも私は愛しています。たとえ世界があなたを嫌っても、恨んでも、死んでしまえと願っても、私はあなたが幸せに暮らせるように生き続けます。私にできることはありますか?」

 

私は幸運な人生を送っている。

 

この世で最も愛を知る人に育てられ、その愛を一身に受けて生きてきた。

 

大切なのは、大切にすることだ。

 

自分を、相手を、環境を、人生を、全てを愛すことで前へ進んでいくのだから。

少年院卒が考える生きやすい生き方とは

 

私は今の時代を生きやすいとは思わない。

 

ものは考えようかもしれないが、政治的、経済的に若者が苦しんでいることは紛れもない事実だろう。

 

数々の自己啓発本が販売され、「自分がなにか」という疑問と向き合いながら生きている人は多い。

 

だが、自分など探したところでどこかにあるわけではない。

 

少年院を出て社会に戻ってきたら、一般的には這いつくばって生きるような姿を想像するかもしれない。

 

しかし、私は今日も下品な笑い声を撒き散らしながら楽しい時間を過ごし、世の多くの人より幸せに暮らしている。

 

生きづらいこの時代に、生きやすく生きる方法とはなにか。

 

社会の最底辺を経験した私が、お伝えしよう。

 

悩むなんておこがましい

 

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私には悩みがない。

 

考えることはあっても、クヨクヨうじうじ悩んだことがない。

 

いつまでも解決しない悩みを抱えている人もいるが、彼らは悩んでいる自分が好きなのだろう。

 

悩み続けることで、可哀想だと同情されたいのかもしれない。

 

だが、同情は、解決策にもその先へ進む道にもならない。

 

悲劇のヒロインになりたいなら、心療内科に行って自分がどれだけ可哀想か訴えたらいい。

 

「悩む」というのは、自分が期待していた結果と違うことを受け入れられないから悩むわけだ。

 

私はそんな行為、おこがましいだけだと思う。

 

たとえば、完全歩合制の仕事をしているとしよう。

 

「思ったよりも稼げなかった」と、悩む人がいる。

 

精一杯やった結果、その金額を稼いだわけであって、自分や環境が悪いから稼げなかったというのは挙げればキリがない。

 

精一杯やった、その日の自分が最も頑張った。

 

その結果がその金額であれば、何を悩むのか理解に苦しむ。

 

いいじゃないか。頑張ったんだから。

 

結果に落ち込むことよりも、まずは頑張った自分を褒めてあげる方が大切じゃないだろうか。

 

そうしてまた明日、精一杯の自分を信じてやれることをやるだけだ。

 

その繰り返しで自信を持つことができ、結果は自ずと付いてくる。

 

「石橋を叩く暇があるなら、叩く前に渡り切ってしまえ」

 

これは私の口癖だが、うじうじと悩む時間があるなら行動した方がずっと早い。

 

渡り切れるか不安なら、渡り切れるまでフルダッシュすればいい。

 

崩壊する橋から逃げるようにして、思い切り走れば絶対に渡り切れる。

 

重要なのは、やるかやらないかだ。

 

どうしようと迷っているその間に、悩みを解決してくれる道はどんどん閉ざされていくことを念頭に置いておこう。

 

下を見るより前を見た方が、あなたを楽にする選択肢は広がっている。

 

他人と自分を比べても得られるものはネガティブしかない

 

私は常時、人と比べられながら生きてきた。

 

「あの子は100点満点なのに、あなたはどうして80点なの?」

 

「あの子はできるのに、あなたはどうしてできないの?」

 

そう言えば頑張ると母は思ったのかもしれないが、私はダメなんだと言われているような気持ちにしかならなかった。

 

そこで生まれる感情は、「悔しいから頑張ろう」ではなく「自分はなんてダメな人間なんだ」という虚しさだけである。

 

少年院に入ってからも、私は自分と他人を比べていた。

 

同級生は大学へ通い将来への道を築いているのに、私は犯罪者になって少年院に送致される。

 

出院後も社会人として立派に働く友人と、自分の置かれた環境を比べたりしていた。

 

だが、そうして得られたものの中にポジティブなものなどひとつもない。

 

どんなにダメな人生でも、その人生はその人だけの経験だ。

 

唯一無二の宝であり、糧とするかゴミとするかはその人次第だろう。

 

40年間、家に引きこもっている人がいたとする。

 

素晴らしいじゃないか。

 

私は落ち着きがないし人と話すのが大好きだから、そんなに長い間、家に引きこもれる人を尊敬する。

 

何より、同じことを40年も続けられる人は早々いないだろう。

 

そうして得られた経験を、引きこもりには何もないと捉えるか、家に引きこもってるからこそ見える世界を糧とするかは考え方次第だ。

 

他の引きこもりと手を組んで、ネットでお金を稼ぐこともできる。

 

引きこもりの悩みを解決することもできるかもしれないし、精神的なサポートを行うこともできるかもしれない。

 

人と全く関わりたくなくても、パソコン一台あれば飯を食うに困ることはない時代だ。

 

「自分にしかできないこと」というのは、絶対にある。

 

どんな人間にも必ず、だ。

 

自分を尊重して、自分が知っていることを最大限生かして生きたらいい。

 

そこに競争や優劣はないし、できるから良い、できないから悪いという基準は、所詮他人の物差しでしかない。

 

他人の物差しに振り回されて生きれば、思う壺だ。

 

自分の物差しは自分に使うものであって、他人に使っている人はその時点でレベルが低いことを覚えておこう。

 

いつだって大切なのは「自分がどうしたいか」それだけだ。

 

それ以外に考えるべきことも、迷うこともない。

 

愛されたいならまずは愛そう

 

「優しくしてくれない!」

 

「愛してくれない!」

 

「なんでよ!どうして!」

 

という人は多いが、お門違いもいいところだ。

 

なにを履き違えているのか知らないが、世界の中心はあなたではない。

 

人に優しくする、というのは容易ではないだろう。

 

特に自分が忙しかったりイライラしているとき、優しさを持って接することは難しくなる。

 

八つ当たりしてしまったり、他のことが原因となって更にイライラしたり、忙しい時に限って…というのは大いにあることだ。

 

私は、優しくしてほしいから人に優しくしている。

 

愛されたいから、人を愛している。

 

大事にされたいから大事にするし、守ってほしいから守ってあげる。

 

自分に返ってくることを想定した上で人に優しくしているから、腹黒いといえば腹黒いのかもしれない。

 

偽善者だろうし、見返りを求めている部分は少なからずある。

 

けれど、思いやりというのはそうして成り立っていくものだ。

 

助けてもらえば、次は自分が助ける。

 

優しくしてもらったら、優しさで返す。

 

愛をもらったら愛をお返しし、ありがとうにはありがとうで返してもらう。

 

そういうことが連鎖していくと、喧嘩になることもないし他人を僻んだり嫌ったりすることもなくなる。

 

私はいつも言うのだが、余裕がないときこそ人に優しくするべきだ。

 

そうすれば自分に余裕がないとき、手を差し伸べてくれる人が現れるようになっている。

 

「恋愛は鏡だ」と言う人がいたが、人生とは鏡だ。

 

したことはそっくりそのまま自分に返ってくるようにできている。

 

因果応報というやつだが、優しさだけを持って接していれば、あなたは必ず優しくしてもらえる。

 

愛だけを持って接すれば、あなたを傷付けるものは現れないだろう。

 

欲しいと思うなら、まずは与えることから始めよう。

 

そうして巡り巡って、いつか必ず自分に返ってくる。

 

「今すぐじゃなきゃ嫌なの!」というのは、エゴでしかない。

 

自分のことしか考えていない人間に、思いやりはない。

 

思いやりのない人間に、思いやりを与える人はいないだろう。

 

自分を省みる、これを習慣化すれば、自ずと余裕は持てるはずだ。

 

同じ土俵で戦えば、相手と同じレベルへ落ちることになる

 

私も人間だ。

 

腹が立つこともあるし、許せないこともある。

 

昔なら物に当たったり、力で解決したり、自分の感情を暴力的にでも表現して発散していた。

 

しかし、殴れば殴り返されるし、物を壊しても残るのは虚無感だけであることを私は実体験から学んでいる。

 

そんなとき、私は祖母に言われたことを思い出す。

 

「腹が立ったら目を瞑って、10秒数えなさい。そうして相手に向かって、にっこり微笑んでから話を始めなさい。」

 

本当に怖い人、というのはいつもプリプリ怒っている人ではない。

 

どんな時も微笑んで冷静に対応している人は、潜在的な恐怖を相手に感じさせる。

 

芸能人でいうと、笑福亭鶴瓶さんだろうか。

 

いつもニコニコ明るい彼だが、怒らせればどうなるか想像も付かない。

 

だが、反対に、坂上忍さんは怒ったところで大して怖くない。だっていつもイライラしているからね。

 

相手と同じ土俵に立つことは、容易で楽な選択だ。

 

ムカついたから怒鳴る、腹が立ったから殴る、気に食わないから物を壊す、それらの選択は考える必要がないから安易にできる。

 

しかし、相手と同じ土俵に立たずして戦うには「余裕」が必要だ。

 

イライラした状況でも余裕を保つためには、どうしたらいいか。

 

「状況を面白がること」だ。

 

私はイライラすると、心の中で相手をボロクソに見下す。

 

「うわぁ、この人いい歳してこんなに怒ってる。みっともないな、なんて惨めなんだろう。可哀想な人だ…同情しようか?ヨシヨシ」

 

もちろん口に出せば燃料を投下することになるが、時には口に出してバカにすることもある。

 

よっぽど相手のレベルが低いと踏んだ上でだが、私は少年院送致になった逮捕時に刑事に対してこのような態度を取っていた。

 

「お勉強はできるんでしょう?でもお勉強だけだよね。自分は正義の味方だって思ってる?頭がお花畑なんだね、御愁傷様。」

 

これを言われた40代男性刑事は顔を真っ赤にして立ち上がり、「調子に乗るな!」と言っていたが、顔を真っ赤にした時点で彼の足元は丸見えである。

 

しかし、その刑事は自分の足元が丸見えなことには気付いていない。

 

これが所謂レベルの低い、勉強だけはできるバカってやつだ。

 

政治家で言うと、枝野幸男もその類。

 

余裕のある人間というのは、相手を冷静に見ることができる。

 

もちろん自分も冷静に見ることができるし、相手に自分がどう写っているかもしっかり理解している。

 

その上で、相手を落とし穴へ誘導する。

 

落ちれば最後、あとは笑って最期を見届けるだけだろう。

 

バカと同じレベルで戦えば、あなたもバカになってしまう。

 

大嫌いなあいつと同じレベルになると考えたら、まともに相手をするのがどれだけ無駄かよく分かるだろう。

 

腹の中でなにを思っても、口に出さなければすべては伝わらない。

 

時にはそれが障害となることもあるが、イライラしているときは味方になってくれるものだ。

 

一旦立ち止まって、深呼吸をしよう。

 

そうして改めて相手を見て、限りある時間をそいつに使うのが果たして正しいのか考えてみよう。

 

そうすれば、ほとんどのことは関心も持たずにイライラさせられることもなくなるだろう。

 

居場所は自分で作るもの

 

私は昔、祖母にこんなことを言った。

 

「私にはどこにも居場所がない」

 

すると祖母は、こんな風に返してきた。

 

「居場所は誰かが用意してくれるものじゃなく、自分で作るものなのよ」

 

当時の私は14歳で、反抗期真っ盛りだった。

 

祖母の言葉に腹を立て家を飛び出したが、今ならその意味が理解できる。

 

非行に走る子どもも、引きこもる子どももよく居場所がないという。

 

しかし、居場所を作れるのはあなたしかいないんだよ。

 

自分が心地いいと思えるようになるためには、周囲の人も心地いいと思える場所にしなくちゃいけない。

 

そのために必要なのは、誰かのせいにしたり状況に嘆いたり、歯向かったりすることではないだろう。

 

自分が「ここにいたい」と思う場所には、少なからず自分以外の人間がいるはずだ。

 

家庭なら親や兄弟、学校なら友人や先生、そんな人にとってもその場所が心地よくなければならない。

 

だったらまずは、彼らにとって心地いいと思える場所を作る必要がある。

 

先ほども言ったように、愛されたいなら愛すことが一番の近道だ。

 

優しくされたいなら、優しくすることが最も近道で、賢い方法なのだ。

 

これが嫌だ、あれも嫌だ、全部嫌だ、親が悪い、学校が悪い、会社が悪い、社会が悪い、そう嘆いていても、誰もあなたを助けたりはしない。

 

なぜか。

 

自分の居場所は自分でしか作れないから。

 

してほしいことを、してあげよう。

 

自分がされて嬉しいことを、人にもしてあげよう。

 

反対に、自分がされて嫌なことを人にしてはいけない。

 

そう心に誓って生きていれば、いつか必ず、絶対に、自分を必要とする居場所ができる。

 

その居場所にいる人たちは、あなたを心から思いやってくれるだろう。

 

まとめ

 

今はすごく生きづらい時代だ。

 

インターネットの普及に伴いいじめは深刻化する一方だし、少子化に伴って若者が負担する割合は日に日に増している。

 

グローバル化と言いながら右向け右の精神は未だ健在だし、左を向けば白い目で見られて指をさされる。

 

日本がこれから上向きに良い変わり方をすることは、絶対にない。

 

どんどん格差は広がって、生きづらい世の中になる。

 

しかし、どんな状況でも自分を保つことはできる。

 

重要なのはいつだって、「自分がどうしたいのか」だけだ。

 

そもそも少年院に入ることは不幸なことなのか

 

どう思うだろうか。

 

一般的に考えたら、不幸なことなのかもしれない。

 

少年院に入りたくて入る人はいないし、そう望む親もいないだろう。

 

少年院や鑑別所が必要ない世界なら、どの子どもも幸せに暮らしていけるのかもしれない。

 

だが、私は少年院出院者として、少年院に入ったことを不幸だとは思わなかった。

 

「今の私に必要な時間だからここへ来たんだ」

 

毎晩、無機質な独房の天井を見上げてそんな風に思っていた。

 

しかし、私のようにポジティブに受け止められる子どもばかりではない。

 

今日は少年院で出会った少年たちの話を交えて、話していこう。

 

医療少年院で出会った3人の少女の話

 

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医療少年院に入院している子で、まともに会話ができる子は少ない。

 

今日は調子よくお話ができても、翌日には血まみれで奇声を上げていることも珍しくなかった。

 

私が入院していた1年間で、毎日プログラムをこなせていたのは私を含めて5人もいなかった。

 

全体の人数は20人弱いるのに、だ。

 

数少ないまともな少年の中で、記憶に残っている少女が3人いる。

 

今日は彼女たちをひとりずつ紹介していこう。

 

19歳、覚せい剤で3度目の少年院送致、親はいない

 

身長は170cm近くあり、ガリガリのモデル体型。

 

白人かと思うほど肌は白く、目鼻立ちはくっきりしていて可愛いというより美人な少女だった。

 

私と同じく19歳で少年院送致になった彼女は、私と一緒に少年院内の成人式に参加した。

 

彼女は19歳にして3度目の少年院送致で、今回を含めて全て覚せい剤で逮捕されていた。

 

時折気が狂って保護室へ担ぎ込まれていたが、基本的には穏やかでよく話す明るい子だった。

 

彼女には、親がいない。

 

具体的に言うと両親が離婚した後、母親に引き取られたが、母はよその男と失踪。

 

母方の祖母が面倒を見てくれることになったものの、兄による性的虐待と祖母からの精神的な虐待に耐え切れなくなり、体を売って暮らしてきたと言っていた。

 

覚せい剤を使用するのは、精神を保つため。

 

使用したからといって現実が良くなることはないと分かっていても、逃げ場が欲しかったと彼女は言っていた。

 

先生だろうが他の少年だろうが、彼女は正論で真っ向勝負し、いつも誰の味方にもならなかった。

 

人を見る目はあるんだろうと思う。

 

IQは確実に高い。

 

だが、寂しいのだろう。

 

男に逃げ、覚せい剤に逃げ、誤魔化し続けていつも逮捕される。

 

そうして送られる先はいつだって少年院で、3度目の少年院送致になった彼女はこんなことを言っていた。

 

「私の家はここ(少年院)なのかもしれない。安全で自分を傷つけるものもなくて、先生は優しい。外で暮らすよりずっと、幸せかも。」

 

彼女は笑いながら、そう言っていた。

 

私は悲しかった。

 

19歳だ。

 

まだまだ人生には夢がたくさんあって、可能性もある。

 

なのに、外で暮らすより少年院の方が心地いいと言うのだ。

 

彼女の埋められない寂しさを、どうしたら埋めてあげられるのかと必死に考えた。

 

人の心配をしている場合ではなかったが、笑う彼女の目には虚しさや寂しさや愛を求める感情が詰まっていた。

 

しかし、今の彼女を救えるのは覚せい剤だけなんだろうとも思った。

 

彼女の場合は覚せい剤に依存しているというより、覚せい剤と共存している感じだった。

 

無ければ生きていけない。

 

無い人生を考えられない。

 

外へ出れば当然のように覚せい剤が手に入り、捕まると分かっていてまた打つ。

 

そこから抜け出すルートも答えも、彼女は見失っているようだった。

 

私よりも数ヶ月早く出院した彼女だが、私の予想では今頃刑務所にいるだろう。

 

15歳、2度目の少年院、親から覚せい剤を打たれて育った

 

ググってもらえばそれっぽいニュースが出てくると思う。

 

どこの誰だと個人情報を明かす気はないが、ググって出てきたそれっぽいニュースの少女がその子だ。

 

彼女は中学2年生で医療少年院送致となり、それが2度目の少年院送致だ。

 

私より数ヶ月先に出院しているが、1ヶ月もしないうちに再送致となり出戻りしていた。

 

明るく天真爛漫で、子どもそのもの。

 

アイドルが大好きで、自身もアイドルになりたいとよく歌いよく笑う子だった。

 

しかし、数日に一回のペースで気が狂う。

 

壁を永遠に叩き続けたり、奇声を発したり、自分の腕の皮膚を噛みちぎったり、大声でオナニーを始めたり…。

 

私の予想では、彼女が精神病院から生きて出られることはない。

 

なぜたった15歳でそうなってしまったかというと、彼女は父親から性的虐待を受けて育っていた。

 

物心ついた頃から父親の下の世話をするのは当たり前で、母親もそれを許容していたそうだ。

 

彼女は知らず知らずのうちに覚せい剤を投与され、気付けば父親と一緒にキメセクを楽しんでいたようだった。

 

いつからか彼女は父親よりも覚せい剤にハマり、父親は覚せい剤を買うお金を娘に稼がせるため援助交際をさせた。

 

もちろん援助交際をするときも覚せい剤を摂取し、気付けば四六時中、彼女はシャブ漬けになっていたのだ。

 

15歳、中学2年生、もしも子どもがいるなら自分の子どもに当てはめて考えてほしい。

 

彼女がどれだけ壮絶な人生を送っているか、分かって頂けるだろうか。

 

彼女と話して最も印象的だった言葉が、これだ。

 

「生まれてきたくなかったよ。」

 

彼女以上に、この言葉に重みを出せる人はいないんじゃないだろうか。

 

17歳、子持ちのシングルマザー、初めての少年院送致

 

少年院には、少年でありながら親である少年も多い。

 

医療少年院で出産する少女も多く、女子寮にはお腹が大きい少女がたくさんいた。

 

通常、自分の子どもといえど面会することはできない。

 

医療少年院で出産しても、出院時までは両親(子どもから見て祖父母にあたる人)か児童養護施設に預けられる。

 

子どものためにも、少年院に連れてくることは良いとはいえないだろう。

 

彼女は17歳、一児の母であり、初めての少年院送致だ。

 

一度だけ彼女と同室になったことがあるが、可愛い女の子の写真をいつも壁に貼っていた。

 

両親は定期的に面会へ来ていて、はたから見ればなんの問題もないように見えた。

 

彼女は精神的な病気も抱えていたが、どちらかというと覚せい剤のやり過ぎで内臓を痛めているという理由から医療少年院送致になったようだった。

 

なにがあって少年院送致になったかというと、彼女も覚せい剤だった。

 

法律では18歳以下の少女が、売春行為を働くのは違法とされている。

 

また風俗店が18歳以下の少女(高校生も)を雇うことは、禁止されている。

 

しかし、世の中にはルールを守らない者もいる。

 

彼女は高校時代にホストにナンパされ、一目惚れしてしまい、ホストに言われるがままデリヘルで働き始めた。

 

デリヘルの店長とホストは裏で繋がっており、デリヘルの店長は彼女に覚せい剤を教えた。

 

彼女はいつからか子どもと寮に軟禁され、ホストクラブとデリヘル以外の一切を奪われた。

 

デリヘルの摘発と共に彼女は捕まったのだが、当日そこには小さな子どもと大量の注射器があったと泣きながら話していた。

 

彼女は恐らく、真っ当に生きられるだろう。

 

目はしっかりと母親をしていたし、子どもに会いたい一心で懲罰を受けるようなことは絶対にしなかった。

 

模範的な良い少女であった彼女は、私よりも早く出院し、その後帰ってくることもなかった。

 

そんな彼女が言った、忘れられない言葉がこれだ。

 

「私は彼のことを(ホスト)本気で愛してた。けれど、それ以上に子どもを愛してる。寂しさからホストにハマってしまったけど、こういう機会をもらえたことに(少年院に入ったことに)今は感謝している。」

 

その言葉が聞けて、私も嬉しかった。

 

少年院に入ることは、決して不幸なことじゃない

 

少年院に入って、様々な人生があることを知った。

 

私は恵まれていて、私の母が私を心底愛していることも実感できた。

 

少年院は最低最悪の場所で、刑務所と同じくらい無機質な時間と空間があるのだと想像していた。

 

しかし、実際に入ってみると、時には家族のような場所となり、時には人生の先輩として指導し、時には刑罰を受ける場所として厳しい態度も取る。

 

が、基本的には温もりに溢れた優しい場所であることは間違いない。

 

私が少年院に入っていた頃に出会った少女たちの大半は、精神病院送りか再犯で出戻りしているだろう。

 

だが、何事も経験だ。

 

成長スピードには個性があって当たり前。

 

人は失敗を重ねながら、成功への道を見出していく。

 

子どもであれば学習が遅くても同じことを繰り返してしまっても、許される期間がある。

 

少年院に入ることが公にならないのは、そんな理由もあるのだろう。

 

まとめ

 

少年院に入ることが、一概に悪いことだとは思わない。

 

刑務官は基本的にドライな対応だが、医療少年院の刑務官ほど優しい先生は他の少年院にはいないだろう。

 

病気の少女を相手にしているのだから優しくて当たり前かもしれないが、医療少年院の刑務官は、精神的病を抱えた少女たちの更生に「愛」が必要なことをよく知っている。

 

子どもは寂しがりやだ。

 

本来はその寂しさを、親や家族というものが埋めるのだろう。

 

だが、中には家族を持たない子どももいる。

 

そんな子どもたちに優しさや見捨てないという愛を与えるのが、医療少年院という場所だ。

 

少しでも多くの人に、医療少年院の実態が伝わると嬉しい。