少年院卒の恋愛観はとても歪んでいる

 

以前お話したように、育った環境は性格よりも性癖に出る。

 

私は性癖異常だという自覚があるが、これは性癖に限った話ではない。

 

私の場合、どちらかというと恋愛観自体が狂っているので、性癖は付随して狂っていても仕方ないという感じだ。

 

男を見る目がない、女を見る目がないと言われる人は、大抵、相手ではなく自分に原因がある。

 

私も長らく相手に原因があると思ってきたが、夫に出会って自分に原因があるとはっきり分かった。

 

それが狂った性癖に気付いたきっかけでもあるが、少年院に入るような子どもが至極一般的な恋愛や結婚ができる可能性はとても低い。

 

自己肯定感の低い子どもが大きくなると、どんな人間に惹かれるのか。

 

今日はそんな話をしよう。

 

初めて付き合った人もその次の人も、DV男としか付き合ったことがない

 

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私が男性と初めてお付き合いをしたのは、13歳の頃だった。

 

友人のお兄ちゃんだったのだが、18歳まで5年間を一緒に過ごした。

 

私の高校卒業を機にプロポーズされたが、まだ遊びたかった私はそれをきっかけに別れることを選んだ。

 

皮肉なことに、初めてお付き合いしたその彼もDVだった。

 

そこから複数人の男性とお付き合いするが、揃いも揃ってDVである。

 

腹が立てば殴られ、喧嘩をすれば蹴られ、物のように投げられる。

 

全身骨折していない場所はないんじゃないかというほどで、最もひどいのは頭から流血したときだろうか。

 

それでも、私がDVをきっかけに別れを考えたことはない。

 

別れを決めたきっかけは、働かない、人のせいにする、誰かに迷惑をかけるといった、至極真っ当な理由である。

 

暴力を振るわれて別れるのも至極真っ当かもしれないが、それは私の中で至極当たり前のことだ。

 

その感覚自体が狂っているが、私は男性=DVという環境の中で恋愛をしてきた。

 

しかし、たったひとりだけDVでなかった人がいる。

 

その彼とも5年ほどお付き合いしたが、私には有り得ない普通の恋愛であった。

 

喧嘩をすることもほとんどなく、刺激はない代わりに荒れることもなかった。

 

暴力のない日々は私を不安にし、刺激を欲する欲求へと駆り立てた。

 

同時期、私と彼は日本の最南端に移住し、田舎で暮らしていた。

 

田舎という環境もあり、私は刺激のない日々に慣れていった。

 

本来は、そのまま入籍して子どもを作り、つまらなくても安定した日々を築き上げていくのかもしれない。

 

それが多くの人の言う「幸せ」なのかもしれないが、私は「早く結婚しなさいよ」と囃し立てられるほど逃げたくて仕方なくなった。

 

そうして、夫に出会うのである。

 

愛=暴力、愛情=死、愛故に=殺意、が私と夫の共通点

 

夫に出会った私はすぐに彼とさようならをし、夫にゾッコンになった。

 

やはり慣れ親しんだ暴力に惹かれてしまい、刺激のない日々に満足することはできないのだと再確認した。

 

しかし、今まで付き合ってきたDVと夫には決定的な違いがあった。

 

それが結婚を決めた理由でもある。

 

私が今まで付き合ってきたDVは、総じて働かなかった。

 

若干18歳から男を養っていたのだが、良しとしてきたわけではない。

 

相手の親と仲良くして働くよう訴えかけ、できることはなんでもしてきた。

 

あくまで私は彼が働くまでの繋ぎとして養っていただけだが、30も過ぎた男を働かせるのは容易でない。

 

私は若い頃から何をしてるんだという感じだが、夫は18歳で入社以来、ずっと同じ会社に務める真面目な人である。

 

いや、そんなことは普通なのかもしれない。

 

しかし、私の恋愛観にとって働いているというのは、それだけで大きな得点になる。

 

またDVというのは、時や場所、理由を選ばない。

 

以前お付き合いしていた人は、人が多い駅で私を突き飛ばすことにも容赦なかった。

 

多くの人が見ていようがいまいが、関係なく暴力を振るってきた。

 

元々自己肯定感の低い私でも、さすがにそこまでいくと「これも愛なの?」と疑問を抱くようになる。

 

そんなことが続いて別れてきたのだが、私の夫はセックス以外で一切の暴力を振るわない。

 

例え喧嘩をしていたとしても、喧嘩とセックス(暴力)は別であると考えられる。

 

これもまた、至極一般的なことであろう。しつこいが、私にとっては普通ではないのだ。

 

そうして私にとっては普通に近い恋愛を体験させてくれたのが、現在の夫であり、結婚を決める理由にもなった。

 

そんな私と夫は、異常性癖を抱えている。自己肯定感が低いというのは、なにもマゾに限った話ではない。

 

どちらかというとサディストの方が、自己肯定感が低いものだ。

 

私は夫に殺してもらうことを、最も強く望んでいる。

 

何度も現実にしようと話し合ったが、実際には難しい。

 

それ故に今日もこうして生きているのだが、私にとって暴力や快楽、愛や死というのは、全てイコールで繋がっている。

 

他の人から見れば、私たち夫婦のセックスはセックスではないだろう。

 

ただ虐げられ、痛め付けられ、時に医師にも怒られるほど血まみれになってセックスをしている。

 

しかし、暴力や痛みという刺激が存在しなければ、私は日常生活に支障が出るほど不安に襲われるのだ。

 

この感覚は、夫も同じである。

 

私をしばらく虐げていないと、私がどこかへ行くのではないかと不安になる。

 

そうして私の嫉妬心を駆り立てようとしてくるのだが、その考え方の普通の人からすれば異常なのだろう。

 

私たちが不幸中の幸いだと思うのは、皮肉にも同じ感情を抱く人間に出会えたからである。

 

結婚する運命だったのだろうと思うが、同じ性癖を抱えるもの同士が出会えたのはすごく幸せなことだ。

 

そうして発散する相手を見つけられない人間が、相手の同意なしに犯罪へ走るようになる。

 

人間も所詮は動物である。

 

欲を駆り立てる動機さえあれば、見境なしになるのも動物なら納得できるだろう。

 

性癖異常の娘に母は「好きに生きなさい」と言った

 

母は私の性癖を知らないが、ロクでもない男とばかり付き合っていたことはご存知だ。

 

同棲していても時折、骨折したり血まみれの状態で実家へ駆け込んでいたため、母はその度、私に説教をしていた。

 

時に警察を介入させて、母は別れるように説得してきた。

 

というのも、父がDVだったため、母は同じ思いをさせたくないと思っている節もあるようだった。

 

しかし、人の言うことを聞くような娘ではない。

 

反対されればされるだけ燃え上がり、別れるときはあっさり、呆気なく別れを決めてきた。

 

そんな母に現在の夫と結婚すると伝えたとき、こっちが笑ってしまうほど喜んでいた。

 

会わせたときも私が夫の話をしているときも「普通の人でよかった」と、今でも度々言うほどである。

 

生憎、普通の人に見えるだけで普通ではないのだが、世間体を気にしてくれる夫であるのはとても有難いことである。

 

母とは私が付き合う相手を巡って、喧嘩になることもしばしあった。

 

そりゃそうだろう。

 

娘がしょっちゅう血まみれになって帰ってきて、泣きながら出て行ったと思ったら今度は腕が逆に曲がって帰ってくる。

 

そんな状況で反対しない親などどこにもいない。

 

しかし、それでも、当時はお付き合いしていた人を愛していた。

 

誰になにを言われても別れる気にはならず、母には相当心配をかけてしまったなと今だから思えることもある。

 

母はそんな私にいつからか「好きに生きなさい」と言うようになった。

 

怒りを通り越して呆れていたのかもしれないが、子ども心にそのセリフは少しだけ寂しく感じた。

 

そんなとき、妹にこう言われたのだ。

 

「お姉ちゃんの人生はお姉ちゃんのものだし、お姉ちゃんが決めたらいいと思う。でもお姉ちゃんが死んじゃったら、私は寂しくてやりきれなくなるかな。」

 

あー、死んじゃいけないんだ。そこまで愛や快楽を求めるのは、誰かを傷付けることにもなるんだ。

 

そんな風に思った記憶がある。

 

もしも私に親や兄弟がいなくて、夫も同じ状況だった場合、私たちは出会って数ヶ月で死んでいただろう。

 

そうしたいと願いながら我慢できている理由は、結局、母を泣かせたくないとか妹を放っておけないとか、多くの人と同じ理由なのである。

 

育った環境で恋愛観が決まる

 

 

私のようにシングルマザーで育つと、歳上に惹かれる場合が多い。

 

娘の場合は男性に父親を求めているからだろうが、事実、私の夫は10歳上である。

 

また初めて好きになったのも、学校の先生だった。

 

同級生に恋したことは一度もなく、お付き合いしたこともない。

 

友人もほとんどというか、全員歳上である。

 

私の家系はとにかくお堅いため、下ネタなど厳禁という環境だった。

 

テレビで少しエッチな話が流れるとすぐにチャンネルを変えられるような、そんな家であった。

 

抑圧された環境で育つと、人はいつか胸を張って思い切り息を吸い込んでやろうと考えるものである。

 

ダメだと言われれば言われるほど興味が湧くように、私は性的なことに興味を持つのも人より早かった。

 

そうしてセックスに自己肯定感を見出すようになるのだが、家庭環境に問題のある子が援助交際をしたり風俗嬢になるのもそれが理由だろう。

 

私はお金をもらうとつまらなくなるという理由で、水商売にはハマれなかった。

 

どうせセックスするなら楽しもうよ!という私の信条に、現金のやり取りというのは必要ないのだ。

 

そんなことはどうでもいいが、恋愛観が狂ってる人は大抵育った環境に問題がある。

 

見る目がないのも同じで、幼い頃から見てきた大人や、そこにはびこる恋愛関係が影響しないわけがないだろう。

 

私は何度も普通の恋愛をしようと努力してきたが、どんなに努力してもその人だけを見ていることができなかった。

 

どうしても刺激を探しに足が動いてしまい、次へ次へとハマれる人を探すことにこだわってきた。

 

いつからかダメ男しか愛せないのだと開き直ったが、そうなると今度はすごく楽に生きることができた。

 

世の中の多くの人は、自分のダメなところをどうにか直そうとしている。

 

自己啓発本を読んだりセミナーに通ったり、このブログを読んでいるのもそういった理由からかもしれない。

 

しかし、どうして直すのか考えてみてほしい。

 

私は暴力を振るわれるのが好きだが、夫が他の人に暴力を振るうことは許さない。

 

嫉妬などではなく、他人に暴力を振るうというのは普通に考えて、異常であり犯罪だからである。

 

暴力を振るわれるのが好きという欲望は、私と夫の間でのみ許されることであり、満たし合えるものだ。

 

であれば、他の誰に迷惑をかけているわけではない。

 

時折医者に世話になることはあっても、医者以外の誰にも迷惑をかけていないのだ。

 

それなのに、直す必要はあるだろうか?

 

誰のために直すのかと考えたら、

 

誰のためでもない、世間の言う普通になりたいだけなんだ

 

と気付いたのである。

 

確かに歪んだ愛を抱えて生きていくのは辛いし、不便なことの方が多い。

 

普通の恋愛ができていれば、今頃マイホームに暮らす普通のママさんアラサーだったろう。

 

しかし、誰のためでもないのなら、自分が良いと思えることを選択するのが一番ではないだろうか。

 

開き直るというと聞こえは悪いが、私はダメ男しか愛せない自分を許し受け入れることにした。

 

そんな部分もひっくるめて私なんだと言い聞かせることで、自分に自信を持つことにも繋がったのだ。

 

何も無理に更生する必要などない

 

少年院卒がこんなことを言ったら生意気だと思われるかもしれないが、更生が誰のためのものか考えてほしい。

 

更生というのは本来、少年のためのものであるはずだ。

 

自分が生きやすくなるために自分自身にできることは何かを考えさせ、実行させるのが大人の役目だろう。(少年院の役目でもあるが。)

 

しかし、現在、少年院で行われている更生は「社会のための更生」である。

 

良い影響を与えるわけでもないが、害悪でもない。

 

そんな量産型の「間違いない子ども」を作るために、同じ枠にハマることが至極真っ当で正しいことだと教えている。

 

要は、抑え付けているだけなのである。

 

何度も繰り返すようだが、誰が、誰のために、更生する必要があるのか今一度考えてみてほしい。

 

その子の性格や性癖、考え方や生き方、好きになる人や惹かれるものは、多くの場合、無害である。

 

他人に影響を与えることもあるが、害悪である場合ほとんどは病気か異常性癖だろう。

 

そうなると適切な対処が必要だが、行き着く先はどちらにせよ閉鎖病棟である。

 

そうならない程度であれば、何も無理に更生する必要などないのではなかろうか。

 

社会に対する更生ができていなくても、人様に迷惑をかけることなく過ごせるのであれば、それがその子にとっての正解ではないだろうか。

 

時に足し算よりも引き算の方が、多くの答えを導き出すことができる。

 

同じように、そろそろ抑え付けるだけの更生を考え直すべきではなかろうか。