少年院卒が考える生きやすい生き方とは

 

私は今の時代を生きやすいとは思わない。

 

ものは考えようかもしれないが、政治的、経済的に若者が苦しんでいることは紛れもない事実だろう。

 

数々の自己啓発本が販売され、「自分がなにか」という疑問と向き合いながら生きている人は多い。

 

だが、自分など探したところでどこかにあるわけではない。

 

少年院を出て社会に戻ってきたら、一般的には這いつくばって生きるような姿を想像するかもしれない。

 

しかし、私は今日も下品な笑い声を撒き散らしながら楽しい時間を過ごし、世の多くの人より幸せに暮らしている。

 

生きづらいこの時代に、生きやすく生きる方法とはなにか。

 

社会の最底辺を経験した私が、お伝えしよう。

 

悩むなんておこがましい

 

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私には悩みがない。

 

考えることはあっても、クヨクヨうじうじ悩んだことがない。

 

いつまでも解決しない悩みを抱えている人もいるが、彼らは悩んでいる自分が好きなのだろう。

 

悩み続けることで、可哀想だと同情されたいのかもしれない。

 

だが、同情は、解決策にもその先へ進む道にもならない。

 

悲劇のヒロインになりたいなら、心療内科に行って自分がどれだけ可哀想か訴えたらいい。

 

「悩む」というのは、自分が期待していた結果と違うことを受け入れられないから悩むわけだ。

 

私はそんな行為、おこがましいだけだと思う。

 

たとえば、完全歩合制の仕事をしているとしよう。

 

「思ったよりも稼げなかった」と、悩む人がいる。

 

精一杯やった結果、その金額を稼いだわけであって、自分や環境が悪いから稼げなかったというのは挙げればキリがない。

 

精一杯やった、その日の自分が最も頑張った。

 

その結果がその金額であれば、何を悩むのか理解に苦しむ。

 

いいじゃないか。頑張ったんだから。

 

結果に落ち込むことよりも、まずは頑張った自分を褒めてあげる方が大切じゃないだろうか。

 

そうしてまた明日、精一杯の自分を信じてやれることをやるだけだ。

 

その繰り返しで自信を持つことができ、結果は自ずと付いてくる。

 

「石橋を叩く暇があるなら、叩く前に渡り切ってしまえ」

 

これは私の口癖だが、うじうじと悩む時間があるなら行動した方がずっと早い。

 

渡り切れるか不安なら、渡り切れるまでフルダッシュすればいい。

 

崩壊する橋から逃げるようにして、思い切り走れば絶対に渡り切れる。

 

重要なのは、やるかやらないかだ。

 

どうしようと迷っているその間に、悩みを解決してくれる道はどんどん閉ざされていくことを念頭に置いておこう。

 

下を見るより前を見た方が、あなたを楽にする選択肢は広がっている。

 

他人と自分を比べても得られるものはネガティブしかない

 

私は常時、人と比べられながら生きてきた。

 

「あの子は100点満点なのに、あなたはどうして80点なの?」

 

「あの子はできるのに、あなたはどうしてできないの?」

 

そう言えば頑張ると母は思ったのかもしれないが、私はダメなんだと言われているような気持ちにしかならなかった。

 

そこで生まれる感情は、「悔しいから頑張ろう」ではなく「自分はなんてダメな人間なんだ」という虚しさだけである。

 

少年院に入ってからも、私は自分と他人を比べていた。

 

同級生は大学へ通い将来への道を築いているのに、私は犯罪者になって少年院に送致される。

 

出院後も社会人として立派に働く友人と、自分の置かれた環境を比べたりしていた。

 

だが、そうして得られたものの中にポジティブなものなどひとつもない。

 

どんなにダメな人生でも、その人生はその人だけの経験だ。

 

唯一無二の宝であり、糧とするかゴミとするかはその人次第だろう。

 

40年間、家に引きこもっている人がいたとする。

 

素晴らしいじゃないか。

 

私は落ち着きがないし人と話すのが大好きだから、そんなに長い間、家に引きこもれる人を尊敬する。

 

何より、同じことを40年も続けられる人は早々いないだろう。

 

そうして得られた経験を、引きこもりには何もないと捉えるか、家に引きこもってるからこそ見える世界を糧とするかは考え方次第だ。

 

他の引きこもりと手を組んで、ネットでお金を稼ぐこともできる。

 

引きこもりの悩みを解決することもできるかもしれないし、精神的なサポートを行うこともできるかもしれない。

 

人と全く関わりたくなくても、パソコン一台あれば飯を食うに困ることはない時代だ。

 

「自分にしかできないこと」というのは、絶対にある。

 

どんな人間にも必ず、だ。

 

自分を尊重して、自分が知っていることを最大限生かして生きたらいい。

 

そこに競争や優劣はないし、できるから良い、できないから悪いという基準は、所詮他人の物差しでしかない。

 

他人の物差しに振り回されて生きれば、思う壺だ。

 

自分の物差しは自分に使うものであって、他人に使っている人はその時点でレベルが低いことを覚えておこう。

 

いつだって大切なのは「自分がどうしたいか」それだけだ。

 

それ以外に考えるべきことも、迷うこともない。

 

愛されたいならまずは愛そう

 

「優しくしてくれない!」

 

「愛してくれない!」

 

「なんでよ!どうして!」

 

という人は多いが、お門違いもいいところだ。

 

なにを履き違えているのか知らないが、世界の中心はあなたではない。

 

人に優しくする、というのは容易ではないだろう。

 

特に自分が忙しかったりイライラしているとき、優しさを持って接することは難しくなる。

 

八つ当たりしてしまったり、他のことが原因となって更にイライラしたり、忙しい時に限って…というのは大いにあることだ。

 

私は、優しくしてほしいから人に優しくしている。

 

愛されたいから、人を愛している。

 

大事にされたいから大事にするし、守ってほしいから守ってあげる。

 

自分に返ってくることを想定した上で人に優しくしているから、腹黒いといえば腹黒いのかもしれない。

 

偽善者だろうし、見返りを求めている部分は少なからずある。

 

けれど、思いやりというのはそうして成り立っていくものだ。

 

助けてもらえば、次は自分が助ける。

 

優しくしてもらったら、優しさで返す。

 

愛をもらったら愛をお返しし、ありがとうにはありがとうで返してもらう。

 

そういうことが連鎖していくと、喧嘩になることもないし他人を僻んだり嫌ったりすることもなくなる。

 

私はいつも言うのだが、余裕がないときこそ人に優しくするべきだ。

 

そうすれば自分に余裕がないとき、手を差し伸べてくれる人が現れるようになっている。

 

「恋愛は鏡だ」と言う人がいたが、人生とは鏡だ。

 

したことはそっくりそのまま自分に返ってくるようにできている。

 

因果応報というやつだが、優しさだけを持って接していれば、あなたは必ず優しくしてもらえる。

 

愛だけを持って接すれば、あなたを傷付けるものは現れないだろう。

 

欲しいと思うなら、まずは与えることから始めよう。

 

そうして巡り巡って、いつか必ず自分に返ってくる。

 

「今すぐじゃなきゃ嫌なの!」というのは、エゴでしかない。

 

自分のことしか考えていない人間に、思いやりはない。

 

思いやりのない人間に、思いやりを与える人はいないだろう。

 

自分を省みる、これを習慣化すれば、自ずと余裕は持てるはずだ。

 

同じ土俵で戦えば、相手と同じレベルへ落ちることになる

 

私も人間だ。

 

腹が立つこともあるし、許せないこともある。

 

昔なら物に当たったり、力で解決したり、自分の感情を暴力的にでも表現して発散していた。

 

しかし、殴れば殴り返されるし、物を壊しても残るのは虚無感だけであることを私は実体験から学んでいる。

 

そんなとき、私は祖母に言われたことを思い出す。

 

「腹が立ったら目を瞑って、10秒数えなさい。そうして相手に向かって、にっこり微笑んでから話を始めなさい。」

 

本当に怖い人、というのはいつもプリプリ怒っている人ではない。

 

どんな時も微笑んで冷静に対応している人は、潜在的な恐怖を相手に感じさせる。

 

芸能人でいうと、笑福亭鶴瓶さんだろうか。

 

いつもニコニコ明るい彼だが、怒らせればどうなるか想像も付かない。

 

だが、反対に、坂上忍さんは怒ったところで大して怖くない。だっていつもイライラしているからね。

 

相手と同じ土俵に立つことは、容易で楽な選択だ。

 

ムカついたから怒鳴る、腹が立ったから殴る、気に食わないから物を壊す、それらの選択は考える必要がないから安易にできる。

 

しかし、相手と同じ土俵に立たずして戦うには「余裕」が必要だ。

 

イライラした状況でも余裕を保つためには、どうしたらいいか。

 

「状況を面白がること」だ。

 

私はイライラすると、心の中で相手をボロクソに見下す。

 

「うわぁ、この人いい歳してこんなに怒ってる。みっともないな、なんて惨めなんだろう。可哀想な人だ…同情しようか?ヨシヨシ」

 

もちろん口に出せば燃料を投下することになるが、時には口に出してバカにすることもある。

 

よっぽど相手のレベルが低いと踏んだ上でだが、私は少年院送致になった逮捕時に刑事に対してこのような態度を取っていた。

 

「お勉強はできるんでしょう?でもお勉強だけだよね。自分は正義の味方だって思ってる?頭がお花畑なんだね、御愁傷様。」

 

これを言われた40代男性刑事は顔を真っ赤にして立ち上がり、「調子に乗るな!」と言っていたが、顔を真っ赤にした時点で彼の足元は丸見えである。

 

しかし、その刑事は自分の足元が丸見えなことには気付いていない。

 

これが所謂レベルの低い、勉強だけはできるバカってやつだ。

 

政治家で言うと、枝野幸男もその類。

 

余裕のある人間というのは、相手を冷静に見ることができる。

 

もちろん自分も冷静に見ることができるし、相手に自分がどう写っているかもしっかり理解している。

 

その上で、相手を落とし穴へ誘導する。

 

落ちれば最後、あとは笑って最期を見届けるだけだろう。

 

バカと同じレベルで戦えば、あなたもバカになってしまう。

 

大嫌いなあいつと同じレベルになると考えたら、まともに相手をするのがどれだけ無駄かよく分かるだろう。

 

腹の中でなにを思っても、口に出さなければすべては伝わらない。

 

時にはそれが障害となることもあるが、イライラしているときは味方になってくれるものだ。

 

一旦立ち止まって、深呼吸をしよう。

 

そうして改めて相手を見て、限りある時間をそいつに使うのが果たして正しいのか考えてみよう。

 

そうすれば、ほとんどのことは関心も持たずにイライラさせられることもなくなるだろう。

 

居場所は自分で作るもの

 

私は昔、祖母にこんなことを言った。

 

「私にはどこにも居場所がない」

 

すると祖母は、こんな風に返してきた。

 

「居場所は誰かが用意してくれるものじゃなく、自分で作るものなのよ」

 

当時の私は14歳で、反抗期真っ盛りだった。

 

祖母の言葉に腹を立て家を飛び出したが、今ならその意味が理解できる。

 

非行に走る子どもも、引きこもる子どももよく居場所がないという。

 

しかし、居場所を作れるのはあなたしかいないんだよ。

 

自分が心地いいと思えるようになるためには、周囲の人も心地いいと思える場所にしなくちゃいけない。

 

そのために必要なのは、誰かのせいにしたり状況に嘆いたり、歯向かったりすることではないだろう。

 

自分が「ここにいたい」と思う場所には、少なからず自分以外の人間がいるはずだ。

 

家庭なら親や兄弟、学校なら友人や先生、そんな人にとってもその場所が心地よくなければならない。

 

だったらまずは、彼らにとって心地いいと思える場所を作る必要がある。

 

先ほども言ったように、愛されたいなら愛すことが一番の近道だ。

 

優しくされたいなら、優しくすることが最も近道で、賢い方法なのだ。

 

これが嫌だ、あれも嫌だ、全部嫌だ、親が悪い、学校が悪い、会社が悪い、社会が悪い、そう嘆いていても、誰もあなたを助けたりはしない。

 

なぜか。

 

自分の居場所は自分でしか作れないから。

 

してほしいことを、してあげよう。

 

自分がされて嬉しいことを、人にもしてあげよう。

 

反対に、自分がされて嫌なことを人にしてはいけない。

 

そう心に誓って生きていれば、いつか必ず、絶対に、自分を必要とする居場所ができる。

 

その居場所にいる人たちは、あなたを心から思いやってくれるだろう。

 

まとめ

 

今はすごく生きづらい時代だ。

 

インターネットの普及に伴いいじめは深刻化する一方だし、少子化に伴って若者が負担する割合は日に日に増している。

 

グローバル化と言いながら右向け右の精神は未だ健在だし、左を向けば白い目で見られて指をさされる。

 

日本がこれから上向きに良い変わり方をすることは、絶対にない。

 

どんどん格差は広がって、生きづらい世の中になる。

 

しかし、どんな状況でも自分を保つことはできる。

 

重要なのはいつだって、「自分がどうしたいのか」だけだ。